実はリーダビリティーって相当大事な要素なんじゃないか
- 2016/09/29
- 07:00
純粋な読者目線で「読み手は個人出版にどんなものを求めているだろうか」と考えてみました。
私が電子書籍を手に取る時、きっかけは案外ヘンテコなタイトルだったりちょっとしたサブカル臭漂に惹かれたケースが多いような気がしますが、そういったツカミの先にある要素が存在するのだと思います。
もったいぶらずに言うと、一般読者は読みやすい作品を好む傾向にあるような気がします。
というのも、ドストエフスキーみたいな重厚な作品は既にドストエフスキーが偉大な作家だと分かっているからありがたがって読むのであって、個人出版の作品が読まれる場合はどちらかと言うと「ちょっとつまんでみるか」ぐらいの感覚がで読まれている印象が強いからです。昔で言うパルプ誌みたいなお手軽さですかね。
文豪が書いた重厚な作品はフルコースの料理で、KDPをはじめとした作品はスナック菓子みたいな。求められている要素がちょっと違うんだと思います。まあ、「山彦」みたいな例外はありますけどね。
それで一般読者が読書をする目的を考えた時、少なくとも小説なら「教養を身に付けるという事」よりも「純粋に楽しんで読む」人が大多数なのだと思います。
そうなると読者の興味はもっぱら「その本を読んでいて楽しいか」という一点に集約されるわけです。
それなら、大概の人は読みやすい娯楽作品の方がいいですよね?
幾多の難解な単語を潜り抜けて、(たとえば「白鯨」のような)偉大な作品を読破する達成感はたしかに存在します。登山に近い感覚でね。
ですが、その楽しみ方には作家の築き上げた名声という要素がかなりの割合で関わってきます。ただ険しいだけで無名の山に登りたいという人はあんまりいません。
読者は三島やドストエフスキーを読んで疲れても文句は言いません。ですが、無名作家の作品なら話は別です(笑)。
そのせいか読者は本能的に読みやすく、とっつきやすい作品を好む傾向にあります。
読みやすい作品ならつまらなくてもダメージがありません。ライブラリから作品を削除して低レビューを付けるだけです(笑)。
しかも、内容が難しいだけの作品だと、辞書をゆっくり引いた労苦の割には達成感を得られないという二重苦が待っています。誰だってそんな思いはしたくないですよね。
別に難解な単語を使うなというわけではありません。現に私も時々難しい言葉を使います。問題はその作品をスムーズに読めるかどうかなのです。
読みやすさには色々な要素が関わってきます。
単語の順番だったり、不用な主語の排除など、ちょっとした違いで文章の読みやすさは別人のように変わってきます。作家の多くは推敲時にこの読みやすさを修正していくわけです。
色々な要素をうまく駆使して、読書にあたってストレスの無い文章を書ける作家は強いですね。
スラスラ読めるという武器は、時として目を背けたくなるぐらい陰惨な描写ですらスムーズに読ませてくれます。読者が物語に没頭してくれたら言う事無し。このようにリーダビリティーは小説において十分な武器となるというわけです。
こんな記事を書いたきっかけですが、わりと最近書いた「売れっ子作家の書いた小説はなぜ読みやすいのか~リーダビリティーから掘り下げる筆力向上のメソッド~」が売れています。特にKUで読まれていますね。
一時は同業者らしきレビュアーの酷評で売上が落ちかけましたが、今は持ち直してKUで月に3000ページほど読まれています。
良くも悪くも(パルプ・フィクション的に)読み捨て感覚で購入される電子書籍には、このリーダビリティーという要素が重要だと個人作家は本能的に理解しているのかもしれません。
今日の午後5時あたりから無料です。
私が電子書籍を手に取る時、きっかけは案外ヘンテコなタイトルだったりちょっとしたサブカル臭漂に惹かれたケースが多いような気がしますが、そういったツカミの先にある要素が存在するのだと思います。
もったいぶらずに言うと、一般読者は読みやすい作品を好む傾向にあるような気がします。
というのも、ドストエフスキーみたいな重厚な作品は既にドストエフスキーが偉大な作家だと分かっているからありがたがって読むのであって、個人出版の作品が読まれる場合はどちらかと言うと「ちょっとつまんでみるか」ぐらいの感覚がで読まれている印象が強いからです。昔で言うパルプ誌みたいなお手軽さですかね。
文豪が書いた重厚な作品はフルコースの料理で、KDPをはじめとした作品はスナック菓子みたいな。求められている要素がちょっと違うんだと思います。まあ、「山彦」みたいな例外はありますけどね。
それで一般読者が読書をする目的を考えた時、少なくとも小説なら「教養を身に付けるという事」よりも「純粋に楽しんで読む」人が大多数なのだと思います。
そうなると読者の興味はもっぱら「その本を読んでいて楽しいか」という一点に集約されるわけです。
それなら、大概の人は読みやすい娯楽作品の方がいいですよね?
幾多の難解な単語を潜り抜けて、(たとえば「白鯨」のような)偉大な作品を読破する達成感はたしかに存在します。登山に近い感覚でね。
ですが、その楽しみ方には作家の築き上げた名声という要素がかなりの割合で関わってきます。ただ険しいだけで無名の山に登りたいという人はあんまりいません。
読者は三島やドストエフスキーを読んで疲れても文句は言いません。ですが、無名作家の作品なら話は別です(笑)。
そのせいか読者は本能的に読みやすく、とっつきやすい作品を好む傾向にあります。
読みやすい作品ならつまらなくてもダメージがありません。ライブラリから作品を削除して低レビューを付けるだけです(笑)。
しかも、内容が難しいだけの作品だと、辞書をゆっくり引いた労苦の割には達成感を得られないという二重苦が待っています。誰だってそんな思いはしたくないですよね。
別に難解な単語を使うなというわけではありません。現に私も時々難しい言葉を使います。問題はその作品をスムーズに読めるかどうかなのです。
読みやすさには色々な要素が関わってきます。
単語の順番だったり、不用な主語の排除など、ちょっとした違いで文章の読みやすさは別人のように変わってきます。作家の多くは推敲時にこの読みやすさを修正していくわけです。
色々な要素をうまく駆使して、読書にあたってストレスの無い文章を書ける作家は強いですね。
スラスラ読めるという武器は、時として目を背けたくなるぐらい陰惨な描写ですらスムーズに読ませてくれます。読者が物語に没頭してくれたら言う事無し。このようにリーダビリティーは小説において十分な武器となるというわけです。
こんな記事を書いたきっかけですが、わりと最近書いた「売れっ子作家の書いた小説はなぜ読みやすいのか~リーダビリティーから掘り下げる筆力向上のメソッド~」が売れています。特にKUで読まれていますね。
一時は同業者らしきレビュアーの酷評で売上が落ちかけましたが、今は持ち直してKUで月に3000ページほど読まれています。
良くも悪くも(パルプ・フィクション的に)読み捨て感覚で購入される電子書籍には、このリーダビリティーという要素が重要だと個人作家は本能的に理解しているのかもしれません。
今日の午後5時あたりから無料です。
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