「崖っぷちマロの冒険」書評
- 2015/09/17
- 23:41
久しぶりに神と対話する事になりそうだ。そういうわけで、今日はこのスタイルでいかせてもらう。
狙い通りに電書ちゃんも釣り上げたし、ブログはほったらかして新作を書こうと思ったが、今日は変な意味で筆が乗っている。そういうわけで熱のある内に書評記事を書いておくよ。
ヘリベマルヲ氏の「崖っぷちマロの冒険」を読了した。いい意味で色々と予想外だったので、俺の感じた想いを好き勝手垂れ流していく。ああ、いつもと態度は違うだろうが、彼は馴れ合いを求めちゃいない。だからこのスタイルの書評が最大限の敬意になるはずだ。怒らせたらそん時はそん時だ。
無駄口はいい。さっさと作品の内容に触れていく。
一言で説明すると、この小説はやたらハードボイルドな小学生が難事件に巻き込まれ、ボコボコにされながら解決を目指す話だ。いや、別にふざけてなんかいないって。
主人公のマロ君は小学五年生で、アダ名の由来は眉毛が薄いからマロ君なんだそうだ。
読書家でもあるこの主人公はカルト教団の創始者を父に持ち、母親は禊の儀式とやらで他界している。ついでに彼は信者を始めとしたあっちこっちの大人やら同級生やらにボコられながら生きている。当然の事ながら、性格は鬱屈したタイプになった。だが同じ目に遭ったら誰でもそうなるんだろう。
そんなマロ君にも友達がいた。寺井玲子は性格さえ問題無ければ、クラスの誰もが夢中になっているはずの規格外の美少女だ。そんな彼女が、「話があるから」という一言を遺して、ある日無残に殺される。縄跳びの縄で木に括り付けられ、その死体は虚空に向かって中指を立てていた。死因は彫刻刀を胸に突き刺されたためだった。
彼女はなんで殺されないといけなかったのか?
事件を調査するにあたって明らかになる、マロ君の所属する教団の闇。そして、ところどころにブチまけられる痛み。その痛みを超えた先に見えるものは……?
とまあ大体そんな話だ。
さて、こっからは好き勝手書いていく。いちいちオブラートに包む気はない。どうせ媚びたって神にはすぐに見破られるからな。
まず最初に感じた事は、ヘリベ氏が小学生なんて書くんだな、って事だな。そして「崖っぷちマロの冒険」は明白にエンタメ路線を走っていた。
ブログに掲載されている著者近影を見る限り、氏は明らかに純文学顔なんだが、作品は気持ちいいくらいエンタメ寄りだった。
まず何が大胆かって、ハードボイルド小学生と自分で銘打っているように、明らかに小学生を小学生らしく描いていない。どこからどう見ても大人だ。
俺は彼の実力を知っている。彼が小学生を再現し損ねるなんて、そんな凡ミスを犯すわけないと分かっていた。
そういえばマロ君の本名ってなんだったっけ……?
そんな事を思いながら読み進んでいたら、こんな文章が出てきた。マロ君が校内放送で呼び出されるシーンだ。
「五年二組の縁辺丸夫君。至急職員室まで来てください」(原文ママ)
ふちべまるお君?
いや、待てよ。もしかして……。
ヘリベマルヲ君?
電車中で気付いたんだが、思わず笑っちまったよ。この作者、完全に開き直ってやがるってな。
喩えてみりゃあ、小さくなったコナン君が高校生の中身を少しも隠さずに生活している感じだろうか。あえてアニメ化してほしい。きっとニヤニヤが止まらないだろう。
だが、これである事に気が付いた。
ヘリベ氏のブログを読んだ経験から思ったが、このネーミングは「崖っぷちマロの冒険」が私小説である事を宣言する意味を多少含んでいたじゃないかっていう事だ。たしかに氏の父親が宗教の創始者とかそんな話は無かったと思うが(ここは誤解を招いたらヤバいから強調しておこう)、母親との確執は過去記事で読んだ記憶があるし、作品を読んでいれば読んでいるほど、本人の近影がそのまんまの顔で、黄色い帽子をかぶってランドセルを背負っているようにしか見えないのだ。いや、それじゃホラーか。
別のレビューで「この小説には一気読みさせる筆力がある」みたいな事が書いてあった気がするが、この作品は半私小説的な側面を持っているからこそ、一見崩壊しそうな設定の中にも生々しいリアリティを保てているんじゃないかと思う。太宰の話なんかもブログで出てきたしな。
あ、そうそう。太宰の話で思い出したからちょいと毒を吐いておく。
太宰の「人間失格」が中二病と言われるのは割と知られた話だが、似たようなテーマを扱っている「仮面の告白」(三島由紀夫)はなぜか標的にならない。頑固と書いたら二文字で済むところを、わざわざ狷介不屈と表現しているあたり、あっちの方が遥かに中二病をこじらせていると思うんだが、豊富な語彙が魔除けになっているのか、その点について指摘する人間は少ない。そう、自称読書通は三島には甘い。
ボコられる前に話題を戻す。
「人間失格」と「崖っぷちマロの冒険」の共通点を挙げるなら、どちらも脆い自分の存在性に対するもどかしさや痛みを語っている点だろう。加えてリーダビリティーが高い点も見逃してはいけない。こういうテーマは語彙をふんだんに発揮して威嚇武装したくなるもんだが、そこをあえて小学生という設定にした作者は殉教者なのか、それともただのドMなのか。
気付いたら駄文をダラダラと書き続けている。
要約すれば、この小説は読みやすくエモーショナルでそして痛みがある。某氏の「血の染み込んだような文章」という評価はまさに正鵠を得ていると言っていいだろう。この文章からはまさに鉄の味がする。
全体に漂う救われなさは他のレビューでも指摘されていた。
だが、痛みを通じてでしか聴こえない声だってある。共有出来ない想いがある。そういう意味でヘリベ氏はDIR EN GREY的な素養を持っているのだろう。痛みからしか希望を救い上げられない。そんな儚さというか不器用さは、時として非常に魅力的に見えるものだ。
まあ、あんまり氏を持ち上げすぎてもよくないので、ちょっとだけ気になったところも挙げておこう。
例えば
甲高い奇声。晴彦が追ってきた。無視して図書館を目指した。見憶えのある高級車が近づいてきた。減速した。スモークガラスの窓が下りた。後藤杏がいった。「乗って」(原文ママ)
とか
仁美は挑発するように、本を高く掲げて振り向いた。枯葉で足を滑らせ、悲鳴をあげて倒れた。僕はひざまずいて助け起こした。「大丈夫?」(原文ママ)
とか、こういう描写がいくらか見られたんだが、もうちょいだけ引っ張っていいんじゃないかと思う。あんまり化粧を塗りたくってもしょうがないが。
前者では高級車のヤバそうな感じをチラつかせて読者に心理的な揺さぶりをかけられるし(すぐにホッとするのは間違いないが)、後者では転び方を描写付きで引っ張る事で、「大人ぶってても結局は子供でしかない」と読者に思わせる表現が出来ただろう。アッサリ書く方法もいいが、引っ張るところは引っ張っていいと思う。
まあ気にすんな。所詮素人の戯言だ。
気付けば今までのレビューで最長かもしれない。
よくぞ俺にここまで長ったらしい駄文を書かせたものだ。
まあいい。それだけこの作品は心に響くのだ。そういう波長を持っているのだ。
何度でも言うが、それはゴミなんかに出来る芸当じゃない。
人の心を動かして感銘を与える行為は誰にでも等しく出来る事じゃない。それは明白に才能なのだ。そして、アンタはそれを持っている。
それを忘れないでほしい。
それさえ忘れないでくれれば、この駄文にも存在する価値はあったという事なのだ。
狙い通りに電書ちゃんも釣り上げたし、ブログはほったらかして新作を書こうと思ったが、今日は変な意味で筆が乗っている。そういうわけで熱のある内に書評記事を書いておくよ。
ヘリベマルヲ氏の「崖っぷちマロの冒険」を読了した。いい意味で色々と予想外だったので、俺の感じた想いを好き勝手垂れ流していく。ああ、いつもと態度は違うだろうが、彼は馴れ合いを求めちゃいない。だからこのスタイルの書評が最大限の敬意になるはずだ。怒らせたらそん時はそん時だ。
無駄口はいい。さっさと作品の内容に触れていく。
一言で説明すると、この小説はやたらハードボイルドな小学生が難事件に巻き込まれ、ボコボコにされながら解決を目指す話だ。いや、別にふざけてなんかいないって。
主人公のマロ君は小学五年生で、アダ名の由来は眉毛が薄いからマロ君なんだそうだ。
読書家でもあるこの主人公はカルト教団の創始者を父に持ち、母親は禊の儀式とやらで他界している。ついでに彼は信者を始めとしたあっちこっちの大人やら同級生やらにボコられながら生きている。当然の事ながら、性格は鬱屈したタイプになった。だが同じ目に遭ったら誰でもそうなるんだろう。
そんなマロ君にも友達がいた。寺井玲子は性格さえ問題無ければ、クラスの誰もが夢中になっているはずの規格外の美少女だ。そんな彼女が、「話があるから」という一言を遺して、ある日無残に殺される。縄跳びの縄で木に括り付けられ、その死体は虚空に向かって中指を立てていた。死因は彫刻刀を胸に突き刺されたためだった。
彼女はなんで殺されないといけなかったのか?
事件を調査するにあたって明らかになる、マロ君の所属する教団の闇。そして、ところどころにブチまけられる痛み。その痛みを超えた先に見えるものは……?
とまあ大体そんな話だ。
さて、こっからは好き勝手書いていく。いちいちオブラートに包む気はない。どうせ媚びたって神にはすぐに見破られるからな。
まず最初に感じた事は、ヘリベ氏が小学生なんて書くんだな、って事だな。そして「崖っぷちマロの冒険」は明白にエンタメ路線を走っていた。
ブログに掲載されている著者近影を見る限り、氏は明らかに純文学顔なんだが、作品は気持ちいいくらいエンタメ寄りだった。
まず何が大胆かって、ハードボイルド小学生と自分で銘打っているように、明らかに小学生を小学生らしく描いていない。どこからどう見ても大人だ。
俺は彼の実力を知っている。彼が小学生を再現し損ねるなんて、そんな凡ミスを犯すわけないと分かっていた。
そういえばマロ君の本名ってなんだったっけ……?
そんな事を思いながら読み進んでいたら、こんな文章が出てきた。マロ君が校内放送で呼び出されるシーンだ。
「五年二組の縁辺丸夫君。至急職員室まで来てください」(原文ママ)
ふちべまるお君?
いや、待てよ。もしかして……。
ヘリベマルヲ君?
電車中で気付いたんだが、思わず笑っちまったよ。この作者、完全に開き直ってやがるってな。
喩えてみりゃあ、小さくなったコナン君が高校生の中身を少しも隠さずに生活している感じだろうか。あえてアニメ化してほしい。きっとニヤニヤが止まらないだろう。
だが、これである事に気が付いた。
ヘリベ氏のブログを読んだ経験から思ったが、このネーミングは「崖っぷちマロの冒険」が私小説である事を宣言する意味を多少含んでいたじゃないかっていう事だ。たしかに氏の父親が宗教の創始者とかそんな話は無かったと思うが(ここは誤解を招いたらヤバいから強調しておこう)、母親との確執は過去記事で読んだ記憶があるし、作品を読んでいれば読んでいるほど、本人の近影がそのまんまの顔で、黄色い帽子をかぶってランドセルを背負っているようにしか見えないのだ。いや、それじゃホラーか。
別のレビューで「この小説には一気読みさせる筆力がある」みたいな事が書いてあった気がするが、この作品は半私小説的な側面を持っているからこそ、一見崩壊しそうな設定の中にも生々しいリアリティを保てているんじゃないかと思う。太宰の話なんかもブログで出てきたしな。
あ、そうそう。太宰の話で思い出したからちょいと毒を吐いておく。
太宰の「人間失格」が中二病と言われるのは割と知られた話だが、似たようなテーマを扱っている「仮面の告白」(三島由紀夫)はなぜか標的にならない。頑固と書いたら二文字で済むところを、わざわざ狷介不屈と表現しているあたり、あっちの方が遥かに中二病をこじらせていると思うんだが、豊富な語彙が魔除けになっているのか、その点について指摘する人間は少ない。そう、自称読書通は三島には甘い。
ボコられる前に話題を戻す。
「人間失格」と「崖っぷちマロの冒険」の共通点を挙げるなら、どちらも脆い自分の存在性に対するもどかしさや痛みを語っている点だろう。加えてリーダビリティーが高い点も見逃してはいけない。こういうテーマは語彙をふんだんに発揮して威嚇武装したくなるもんだが、そこをあえて小学生という設定にした作者は殉教者なのか、それともただのドMなのか。
気付いたら駄文をダラダラと書き続けている。
要約すれば、この小説は読みやすくエモーショナルでそして痛みがある。某氏の「血の染み込んだような文章」という評価はまさに正鵠を得ていると言っていいだろう。この文章からはまさに鉄の味がする。
全体に漂う救われなさは他のレビューでも指摘されていた。
だが、痛みを通じてでしか聴こえない声だってある。共有出来ない想いがある。そういう意味でヘリベ氏はDIR EN GREY的な素養を持っているのだろう。痛みからしか希望を救い上げられない。そんな儚さというか不器用さは、時として非常に魅力的に見えるものだ。
まあ、あんまり氏を持ち上げすぎてもよくないので、ちょっとだけ気になったところも挙げておこう。
例えば
甲高い奇声。晴彦が追ってきた。無視して図書館を目指した。見憶えのある高級車が近づいてきた。減速した。スモークガラスの窓が下りた。後藤杏がいった。「乗って」(原文ママ)
とか
仁美は挑発するように、本を高く掲げて振り向いた。枯葉で足を滑らせ、悲鳴をあげて倒れた。僕はひざまずいて助け起こした。「大丈夫?」(原文ママ)
とか、こういう描写がいくらか見られたんだが、もうちょいだけ引っ張っていいんじゃないかと思う。あんまり化粧を塗りたくってもしょうがないが。
前者では高級車のヤバそうな感じをチラつかせて読者に心理的な揺さぶりをかけられるし(すぐにホッとするのは間違いないが)、後者では転び方を描写付きで引っ張る事で、「大人ぶってても結局は子供でしかない」と読者に思わせる表現が出来ただろう。アッサリ書く方法もいいが、引っ張るところは引っ張っていいと思う。
まあ気にすんな。所詮素人の戯言だ。
気付けば今までのレビューで最長かもしれない。
よくぞ俺にここまで長ったらしい駄文を書かせたものだ。
まあいい。それだけこの作品は心に響くのだ。そういう波長を持っているのだ。
何度でも言うが、それはゴミなんかに出来る芸当じゃない。
人の心を動かして感銘を与える行為は誰にでも等しく出来る事じゃない。それは明白に才能なのだ。そして、アンタはそれを持っている。
それを忘れないでほしい。
それさえ忘れないでくれれば、この駄文にも存在する価値はあったという事なのだ。
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