新作の断片
- 2022/09/23
- 16:15
「健四郎、手をだせよ」
大迫がイラついた声で言う。早く小幡を捕まえて叩きのめしてほしいという思いが少しも隠されていなかった。
小幡は内心で笑う。小幡ロキは元天才ボクシング少年だ。それは炎上動画事件があろうが無かろうが関係ない。
小幡は井上よりも幼少期からボクシングをやっていたし、才能もあった。練習自体もそれほど手を抜いているわけではない。ただ何かが足りなかっただけだ。
サイドからサイドへとステップを踏み、踊るような足取りでフリッカーをペチンと当てる。遊びながら、距離を測りつつカウンターのタイミングも探る。一見小幡は遊んでいるようで頭も使っている。
ボクシングにおいて重要な要素はスピード、距離、タイミングだ。実戦において手を出す事は重要だが、闇雲に手数だけを出せばスタミナを浪費し、適切な距離感を掴み損ねる。
小幡はペースを握る事自体よりも、距離感やどのような属性を持ったパンチが来るのかを初回で見極めたい思いがあった。
大迫の考えは逆だった。先に手を出していいパンチを当て、そこから距離感やリズムを掴む事こそが勝利の定石。それが現役自体に相手を見過ぎてズルズルとペースを握られた苦い経験からも来ている考えだった。
どちらの考えも間違いではない。だが、日本のボクシング界では、選手と指導者の意見が対立する時、指導者の意見が押し通される事がままある。これは指導者の立場が選手に比べて上司めいた立ち位置にある事もその要因の一つとなっている。
どちらかと言うと業界の古い体質の中で育ってきた大迫にとって、指導者に意見をする選手などありえない存在だった。
大迫の指導する選手は全員がガードを高く上げ、堅牢な守備から左を突き、堅実なボクシングで確実に勝つ――それが彼の指導する選手の間にあった不文律だった。
だが、小幡は大迫の指導に真っ向から反発し、おかしいと思えば言い合いも辞さない。大迫からすれば「かわいがり甲斐」の無い選手だった。
一回終了のゴングが鳴った。
小幡は大迫に背を向け、反対側のコーナーにもたれかかる。向こうで井上に水を飲ませる大迫がものすごい顔で睨んでいた。小幡は表情を変えずに、練習生が持ってきたペットボトルで水を飲む。
「手を出せよ。あんなのに舐められてるじゃねえかよ」
聞えよがしの叱責。小幡の見尻がわずかに吊り上がる。
大迫が情けない教え子へ叱るように指示を出している。謝るように頷く井上。
――そうやってお前の教え子は委縮してきた。
小幡は冷ややかな視線でそのさまを見ている。
壁に掛けられたデジタル式のタイマーが残り時間が少なくなっている事を示す。ペットボトルを練習生に渡すと、二回目のゴングが鳴った。
大迫がイラついた声で言う。早く小幡を捕まえて叩きのめしてほしいという思いが少しも隠されていなかった。
小幡は内心で笑う。小幡ロキは元天才ボクシング少年だ。それは炎上動画事件があろうが無かろうが関係ない。
小幡は井上よりも幼少期からボクシングをやっていたし、才能もあった。練習自体もそれほど手を抜いているわけではない。ただ何かが足りなかっただけだ。
サイドからサイドへとステップを踏み、踊るような足取りでフリッカーをペチンと当てる。遊びながら、距離を測りつつカウンターのタイミングも探る。一見小幡は遊んでいるようで頭も使っている。
ボクシングにおいて重要な要素はスピード、距離、タイミングだ。実戦において手を出す事は重要だが、闇雲に手数だけを出せばスタミナを浪費し、適切な距離感を掴み損ねる。
小幡はペースを握る事自体よりも、距離感やどのような属性を持ったパンチが来るのかを初回で見極めたい思いがあった。
大迫の考えは逆だった。先に手を出していいパンチを当て、そこから距離感やリズムを掴む事こそが勝利の定石。それが現役自体に相手を見過ぎてズルズルとペースを握られた苦い経験からも来ている考えだった。
どちらの考えも間違いではない。だが、日本のボクシング界では、選手と指導者の意見が対立する時、指導者の意見が押し通される事がままある。これは指導者の立場が選手に比べて上司めいた立ち位置にある事もその要因の一つとなっている。
どちらかと言うと業界の古い体質の中で育ってきた大迫にとって、指導者に意見をする選手などありえない存在だった。
大迫の指導する選手は全員がガードを高く上げ、堅牢な守備から左を突き、堅実なボクシングで確実に勝つ――それが彼の指導する選手の間にあった不文律だった。
だが、小幡は大迫の指導に真っ向から反発し、おかしいと思えば言い合いも辞さない。大迫からすれば「かわいがり甲斐」の無い選手だった。
一回終了のゴングが鳴った。
小幡は大迫に背を向け、反対側のコーナーにもたれかかる。向こうで井上に水を飲ませる大迫がものすごい顔で睨んでいた。小幡は表情を変えずに、練習生が持ってきたペットボトルで水を飲む。
「手を出せよ。あんなのに舐められてるじゃねえかよ」
聞えよがしの叱責。小幡の見尻がわずかに吊り上がる。
大迫が情けない教え子へ叱るように指示を出している。謝るように頷く井上。
――そうやってお前の教え子は委縮してきた。
小幡は冷ややかな視線でそのさまを見ている。
壁に掛けられたデジタル式のタイマーが残り時間が少なくなっている事を示す。ペットボトルを練習生に渡すと、二回目のゴングが鳴った。
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