あなたがレビューに違和感を持つ時
- 2019/10/18
- 17:00
ずいぶんと昔の話ですが、中学時代の私にはとても尊敬している友達がいました。
彼はすべての教科で優秀な点を取り、よくいる神童と呼ばれる類の人でした。
そんな彼がある日読書感想文を披露する事になり、当時読書はそれほど好きでなかったにしても、内心「どんな面白い本が披露されるのだろう?」と楽しみにしておりました。
ところがいざ本番になってみると、彼は作品のいいところではなく、悪いところばかりを指摘する事に終始していました。
はっきり言いますが、ひどくガッカリしました。
私が知りたかったのは彼の滋養となった文学が何だったのか。そして彼がそこから何を得たのかという事だったのですが、彼はわざわざ今日食ったメシがますかった話をみんなの前で披露したわけです。これでは面白いはずがありません。
ええ、人にはつまらない作品をつまらないと言う資格があります。
ですが、その作品がどう面白かったかについては多くの人が関心あっても、その作品がいかにクソだったかについてはほとんどの人にとってどうでもいい事なのです。
いったい誰がまずい料理がどうまずかったかについて聞きたいと思うのでしょう?
あえて名前を出しますが、過去に忌川タツヤ氏が私の短編集を読んで「彼にしては習作ばかり」といった書評をしていた記憶がありますが、それはそれでシンプルで良かったのだと思います。
それは単に感想であり、聞いた私は「ああ、もっと頑張らないとな」と思ってそれでおしまいです。
ですが、これで彼がネチネチといかに私の書いた作品が駄作かを証明する事に躍起になっていたらどうなっていたでしょうか?
まあ、戦争が起こったでしょうね(笑)。
思うに、批判をダラダラと書き連ねている批評に対して私達がうっすらと感じている不快感の正体は、結局はそのレビュアーが人様の作品を通して自己顕示をしているだけなのを暗に知っている事から来るようです。
もっと分かりやすく言うと、人の作品をダシにして第三者に「あの人の慧眼まじスゲーっす!」と言わせようとしている感が伝わってしまうのだと思います。
たしかに中には面白おかしくジョークを交えて作品をディスる人もいます。
ですがそういう人だってどこかに芸術的なセンスを持ち合わせていたり、よくよく見るとその作品を愛しているのが分かる場合がほとんどです。
つまり、読者は実際のところ作品の良いところを知りたいのであって、つまらない点を知りたいのではないという事です。
こういう事を言うと差別発言になってしまうかもしれませんが、文学部を卒業して中途半端に「自分には文学の教養がある」と自覚しているような人は学校で刷り込まれた妙ちきりんな批判癖を自覚もなく振り回す傾向にある気がいたします。
自分はそんな事は無いと思いたいですが、なかなか自覚と第三者的な視点では見えてくるものも違いますから、次の言葉を胸に刻んでおこうかと思います。
読者は面白い作品を望んでいるのであり、良く出来た批評を読みたいのではない、と。
彼はすべての教科で優秀な点を取り、よくいる神童と呼ばれる類の人でした。
そんな彼がある日読書感想文を披露する事になり、当時読書はそれほど好きでなかったにしても、内心「どんな面白い本が披露されるのだろう?」と楽しみにしておりました。
ところがいざ本番になってみると、彼は作品のいいところではなく、悪いところばかりを指摘する事に終始していました。
はっきり言いますが、ひどくガッカリしました。
私が知りたかったのは彼の滋養となった文学が何だったのか。そして彼がそこから何を得たのかという事だったのですが、彼はわざわざ今日食ったメシがますかった話をみんなの前で披露したわけです。これでは面白いはずがありません。
ええ、人にはつまらない作品をつまらないと言う資格があります。
ですが、その作品がどう面白かったかについては多くの人が関心あっても、その作品がいかにクソだったかについてはほとんどの人にとってどうでもいい事なのです。
いったい誰がまずい料理がどうまずかったかについて聞きたいと思うのでしょう?
あえて名前を出しますが、過去に忌川タツヤ氏が私の短編集を読んで「彼にしては習作ばかり」といった書評をしていた記憶がありますが、それはそれでシンプルで良かったのだと思います。
それは単に感想であり、聞いた私は「ああ、もっと頑張らないとな」と思ってそれでおしまいです。
ですが、これで彼がネチネチといかに私の書いた作品が駄作かを証明する事に躍起になっていたらどうなっていたでしょうか?
まあ、戦争が起こったでしょうね(笑)。
思うに、批判をダラダラと書き連ねている批評に対して私達がうっすらと感じている不快感の正体は、結局はそのレビュアーが人様の作品を通して自己顕示をしているだけなのを暗に知っている事から来るようです。
もっと分かりやすく言うと、人の作品をダシにして第三者に「あの人の慧眼まじスゲーっす!」と言わせようとしている感が伝わってしまうのだと思います。
たしかに中には面白おかしくジョークを交えて作品をディスる人もいます。
ですがそういう人だってどこかに芸術的なセンスを持ち合わせていたり、よくよく見るとその作品を愛しているのが分かる場合がほとんどです。
つまり、読者は実際のところ作品の良いところを知りたいのであって、つまらない点を知りたいのではないという事です。
こういう事を言うと差別発言になってしまうかもしれませんが、文学部を卒業して中途半端に「自分には文学の教養がある」と自覚しているような人は学校で刷り込まれた妙ちきりんな批判癖を自覚もなく振り回す傾向にある気がいたします。
自分はそんな事は無いと思いたいですが、なかなか自覚と第三者的な視点では見えてくるものも違いますから、次の言葉を胸に刻んでおこうかと思います。
読者は面白い作品を望んでいるのであり、良く出来た批評を読みたいのではない、と。
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