タブーを扱うハードルは実は高い
- 2019/08/05
- 17:00
最近タブーを扱った作品(かなり遠まわし)が物議を醸しているそうですが、タブーを扱う際に気を付けておきたい事があります。
それは、タブーを扱った作品は技量が伴わないとどうしようもなくしょうもない作品になるという事です。
もちろん作品名は出せないのですが、ひと昔前に「性行為を知らない小学生同士に子供が出来てしまい……」みたいな社会派(?)の映画がありまして、当時は「こんな取り扱いの難しい題材をどう料理するのだろう?」とワクワクして観たのですが……結果は妊娠した小学生がうまく子供を産んでめでたしめでたしみたいな結末になっておりまして、やはりというか、「え~?」っていう感想を禁じえませんでした。おそらく同作品を観た人は大体同じような心象を抱いたのではないかと思います。
もちろん作品名は色々怖いから出せないのですが、このように題材に見合った手腕の無い人が闇雲にタブー(笑)に挑んだら大体無残な結果が待っています。
いやあ、あの映画はマジで酷かった。
……という愚痴はさておき、タブーを扱うからには読者の予測を二段も三段も超えて表現しないといけません。そうでなければ、ぶっちゃけある程度の腕前のある人なら誰だって出来るからです。
さっきの話は小学生の妊娠を扱った映画の話でしたが、あれだったら逮捕の危険を顧みずにロリ系のエロ同人マンガを書いている作家の方がよっぽど潔いし尖っていると思ってしまうのです。
理想というか、ナチュラルにそういった素材を使いたいのであれば気付いたらタブー扱ってましたみたいな流れしかないのだと思います。
これを逆にするとあざとさというか、奇を衒っている感が鼻につくようになります。
逆にですが、文学だと朝井リョウの「何者」とか、村田沙耶香の「コンビニ人間」というのは非常に身近な題材を扱っていながら誰もが直視したがらない「人間」の中に眠るモヤっとした違和感を扱っており、だからこそ価値があるのです。
こっちの方がよっぽどタブーを扱っているし、過激なものを扱わなくても過激な事は出来るというか、人の心を抉るのにエログロや血しぶきが必ずしも必要ではない事を良く示しているかと思われます。
要は競合相手がいないからって過激な方に走ればいいわけでもないのです。
夏服の女子高生を犯す映像よりも夏服で汗だくになりながら縄跳びを飛んでいるだけの女子高生の方が遥かにエロく見える瞬間がある事があるように、誰もが潜在的には目にしていながら見つけられていないものを届ける事こそが表現者としてのすごみなのです。
ここにはリンゴを見て重力の存在を発見したニュートン的な視点が必要になります。
過激なものは最初っから過激だし、ゆえにその領域を出る事が困難になるのです。
分かりますか?
ですので、ナチュラルボーン過激でない方は無理して突飛な事をやるのではなく、ナチュラルに組成出来る個性を育むべきなのです。
タブーを使う事「だけ」にワクワク感を覚えている人は、この事をくれぐれもお忘れなきよう。
それは、タブーを扱った作品は技量が伴わないとどうしようもなくしょうもない作品になるという事です。
もちろん作品名は出せないのですが、ひと昔前に「性行為を知らない小学生同士に子供が出来てしまい……」みたいな社会派(?)の映画がありまして、当時は「こんな取り扱いの難しい題材をどう料理するのだろう?」とワクワクして観たのですが……結果は妊娠した小学生がうまく子供を産んでめでたしめでたしみたいな結末になっておりまして、やはりというか、「え~?」っていう感想を禁じえませんでした。おそらく同作品を観た人は大体同じような心象を抱いたのではないかと思います。
もちろん作品名は色々怖いから出せないのですが、このように題材に見合った手腕の無い人が闇雲にタブー(笑)に挑んだら大体無残な結果が待っています。
いやあ、あの映画はマジで酷かった。
……という愚痴はさておき、タブーを扱うからには読者の予測を二段も三段も超えて表現しないといけません。そうでなければ、ぶっちゃけある程度の腕前のある人なら誰だって出来るからです。
さっきの話は小学生の妊娠を扱った映画の話でしたが、あれだったら逮捕の危険を顧みずにロリ系のエロ同人マンガを書いている作家の方がよっぽど潔いし尖っていると思ってしまうのです。
理想というか、ナチュラルにそういった素材を使いたいのであれば気付いたらタブー扱ってましたみたいな流れしかないのだと思います。
これを逆にするとあざとさというか、奇を衒っている感が鼻につくようになります。
逆にですが、文学だと朝井リョウの「何者」とか、村田沙耶香の「コンビニ人間」というのは非常に身近な題材を扱っていながら誰もが直視したがらない「人間」の中に眠るモヤっとした違和感を扱っており、だからこそ価値があるのです。
こっちの方がよっぽどタブーを扱っているし、過激なものを扱わなくても過激な事は出来るというか、人の心を抉るのにエログロや血しぶきが必ずしも必要ではない事を良く示しているかと思われます。
要は競合相手がいないからって過激な方に走ればいいわけでもないのです。
夏服の女子高生を犯す映像よりも夏服で汗だくになりながら縄跳びを飛んでいるだけの女子高生の方が遥かにエロく見える瞬間がある事があるように、誰もが潜在的には目にしていながら見つけられていないものを届ける事こそが表現者としてのすごみなのです。
ここにはリンゴを見て重力の存在を発見したニュートン的な視点が必要になります。
過激なものは最初っから過激だし、ゆえにその領域を出る事が困難になるのです。
分かりますか?
ですので、ナチュラルボーン過激でない方は無理して突飛な事をやるのではなく、ナチュラルに組成出来る個性を育むべきなのです。
タブーを使う事「だけ」にワクワク感を覚えている人は、この事をくれぐれもお忘れなきよう。
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