怒りも悲しみも売り物になる
- 2019/06/14
- 17:00
人間生きていればいい事ばかりではなく、時々心が折れてしまいそうなくらい嫌な目に遭う事もあります。
ですが、これに一矢報いずにただ耐えるというのはあまりにも勿体無いというものです。
いいですか?
嫌な思いをさせられて、ただそれが過ぎ去るのを待つのはやられ損です。
そういった負の感情に対する一種の健全な報復として、それを作品に使うという手があります。
たとえば異性にフラれたとしましょう。
その事実だけがあったらただつらいだけでしょうが、あなたの中にはフラれた人がどのような心理になるのかという実例が出来上がるわけです。
これを作品にそのまま書いたとしても、「リアルさが無い」と指摘するのはおかしいという話になります。だって、本当にそれはあなたが感じた思いなのですから。
たしかに表現する技術の巧拙でそれがリアルに見えない時もあるでしょう。「実体験があってもそうなる程度の才能ならもう引退しちゃいなよ」とは正直思いますが、それは推敲で何度も書き直すか単に書きまくる事で技術の底上げをすれば済む話でしょう。
あとは応用力の問題です。
妻が亡くなった話を書くのに、「ではちょっとばかり死んでみて下さい」と妻に言うわけにはいきません。
ただ、身近な存在が亡くなって(たとえそれがペットのような存在でも)感じた心の内側というのは大差ないのではないかと思います。それは同じ喪失の経験だからです。
不思議な事に、自身の怒りや悲しみを参考資料として何度も何度も同じ体験を見ていると、その影響力は収まり、より客観的にその出来事を見られるようになります。似たような体験をした方は他にもいるかとは思いますが。
話は脱線しましたが、どんなにネガティブなものでも、応用と発想次第では売り物になるという事です。
人の愚痴なんか聞きたくないという人でも湊かなえの愚痴……もとい、小説は喜んで読んだりします。それは結局彼にとって愚痴が受け入れられる形に変換されているだけの話なのです。
そしてこのやり方は日々同じような圧力に蹂躙されている方々にとって励みになります。このように死へと向かう感情を再利用する事も出来るわけです。
ですから、個人作家に限らず日々なにかしら嫌な思いをした人は、その出来事をどうネタに出来るか考えてみるともっと楽に生きられるでしょう。それは居酒屋トークという形でも構いません。
転んだっていいのです。転んだら、道ばたに落ちている小銭を探しなさい。
ですが、これに一矢報いずにただ耐えるというのはあまりにも勿体無いというものです。
いいですか?
嫌な思いをさせられて、ただそれが過ぎ去るのを待つのはやられ損です。
そういった負の感情に対する一種の健全な報復として、それを作品に使うという手があります。
たとえば異性にフラれたとしましょう。
その事実だけがあったらただつらいだけでしょうが、あなたの中にはフラれた人がどのような心理になるのかという実例が出来上がるわけです。
これを作品にそのまま書いたとしても、「リアルさが無い」と指摘するのはおかしいという話になります。だって、本当にそれはあなたが感じた思いなのですから。
たしかに表現する技術の巧拙でそれがリアルに見えない時もあるでしょう。「実体験があってもそうなる程度の才能ならもう引退しちゃいなよ」とは正直思いますが、それは推敲で何度も書き直すか単に書きまくる事で技術の底上げをすれば済む話でしょう。
あとは応用力の問題です。
妻が亡くなった話を書くのに、「ではちょっとばかり死んでみて下さい」と妻に言うわけにはいきません。
ただ、身近な存在が亡くなって(たとえそれがペットのような存在でも)感じた心の内側というのは大差ないのではないかと思います。それは同じ喪失の経験だからです。
不思議な事に、自身の怒りや悲しみを参考資料として何度も何度も同じ体験を見ていると、その影響力は収まり、より客観的にその出来事を見られるようになります。似たような体験をした方は他にもいるかとは思いますが。
話は脱線しましたが、どんなにネガティブなものでも、応用と発想次第では売り物になるという事です。
人の愚痴なんか聞きたくないという人でも湊かなえの愚痴……もとい、小説は喜んで読んだりします。それは結局彼にとって愚痴が受け入れられる形に変換されているだけの話なのです。
そしてこのやり方は日々同じような圧力に蹂躙されている方々にとって励みになります。このように死へと向かう感情を再利用する事も出来るわけです。
ですから、個人作家に限らず日々なにかしら嫌な思いをした人は、その出来事をどうネタに出来るか考えてみるともっと楽に生きられるでしょう。それは居酒屋トークという形でも構いません。
転んだっていいのです。転んだら、道ばたに落ちている小銭を探しなさい。
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