深夜に書いたジェイケエ論
- 2018/10/22
- 17:00
今さらな話のやうですが、終電を逃して国道の脇をトボトボと歩いていくうちに、ふとある考えが過ぎったのです。
それは、どうして日本ではジェイケエ、つまりは女子高生があらゆる分野で妄執の対象となるのかという話です。
それを性的な対象としやうがしまいが、ジェイケエは常に時代の中心にあり、この国はジェイケエに動かされていると言っても過言ではありません。
ずいぶんと前の記事で「男はジェイケエを記号としてしか見ていない」と言ったやうな気がしますが、それではまだ舌足らずだったのではないかと思います。
最近、というか随分と前からテレビゲエムには手を出さなくなりました。というのも、わたしの奥底で「妄想に勝るグラフィックは存在しない」というデエタが確立されたからです。
そこで思ったのですが、わたしが過去「入間失格」で表現してきたやうに、人はただジェイケエを記号として見ているだけではなく、過去に好きだった人や、自身の青春時代を彷彿とさせるやうな少女性というものに惹かれているのではないかと思うのです。
思えば過去に愛した女ほど美しく見えるものはありません。叶わぬ恋や、いくばくかの悲恋は思い出そのものを怖ろしいまでの厚化粧で糊塗し、それは過去への過大評価を妄想というフィルタアを通して増大させる傾向にあるやうな気がするのです。
そこには妄想が占められる体積が大きいだけ希望を生み出し、その人にありもしない美少女の面影を追いかけさせる媚薬のやうな香を漂わせる機能があるのだと思います。
ですから、実物というのは極力出てきてはいけません。
これが同窓会で見る影も無く太った姿を見せ、男子を地獄の底に突き落とす元クラスのアイドルの発生理由だと思うのです。
つまりです、日本のジェイケエというのはオッサン連中の青春やら妄想やらを不当に背負わされた概念のやうに思えるのです。そうです。彼らは概念に熱を上げているだけなのです。
そのやうなピュアだか邪悪だか分からない希望的な思い出に支えられているから、ジェイケエというのは妄執の対象となり、純文学に使えるフェチズムを持ちながらアダルトの世界でも圧倒的な記号性と存在感を両立し得る存在になれたのだと思います。
然るに前述の「妄想が占められる体積が大きいだけ希望を生み出し、その人にありもしない美少女の面影を追いかけさせる媚薬のやうな香を漂わせる機能がある」という法則が最大限活かされるには、当然の事それが画として存在している比率が少ないか、仮に存在していても男性の潜在的、または顕在的欲望を満たす存在でなければ成立しないのです。
そうなるとジェイケエという素材がその存在を余す事発揮出来る場というのは、つまるところ文学かエロ同人だけのやうな気がするのです。
なぜ実在の美少女ではいけないのか。答えは簡単です。
一人一人の思い出に佇立するクラスのアイドルというのは千差万別でございますし、もしそこにザ・美少女が実体を持って存在するのであれば、そこには必ず思い出との齟齬が生まれるからです。
わずかな違いが大きな落胆を生みます。それは妄想の少女そのものでなければいけないのです。
それを埋める事が出来るのは、結局のところすべてが文字で表現されている「美」少女か、「ええい、細かい事は気にするな」と性の対象として割り切られた少女もどきだけなのです。
このやうな両立があるゆえに、ジェイケエというのは妄想の世界ですら歪な存在性を保つ事が出来るのです。
その卑劣なやり口はわざと腕を忘れてきたミロのビイナスと同じなのです。
結局のところ、そこには余白があり、わたし達はその余白を好き勝手彩った妄想で埋めて、「これは美しい!」と喜んでいるだけなのです。
嗚呼、深夜の3時過ぎに何を書いているでせう、わたくしは。
まあいいのです。これはきっと夜の贈り物なのです。
夜の贈り物を夕方に投稿して赤っ恥を書こうとする謎の自己犠牲なのです。
それは、どうして日本ではジェイケエ、つまりは女子高生があらゆる分野で妄執の対象となるのかという話です。
それを性的な対象としやうがしまいが、ジェイケエは常に時代の中心にあり、この国はジェイケエに動かされていると言っても過言ではありません。
ずいぶんと前の記事で「男はジェイケエを記号としてしか見ていない」と言ったやうな気がしますが、それではまだ舌足らずだったのではないかと思います。
最近、というか随分と前からテレビゲエムには手を出さなくなりました。というのも、わたしの奥底で「妄想に勝るグラフィックは存在しない」というデエタが確立されたからです。
そこで思ったのですが、わたしが過去「入間失格」で表現してきたやうに、人はただジェイケエを記号として見ているだけではなく、過去に好きだった人や、自身の青春時代を彷彿とさせるやうな少女性というものに惹かれているのではないかと思うのです。
思えば過去に愛した女ほど美しく見えるものはありません。叶わぬ恋や、いくばくかの悲恋は思い出そのものを怖ろしいまでの厚化粧で糊塗し、それは過去への過大評価を妄想というフィルタアを通して増大させる傾向にあるやうな気がするのです。
そこには妄想が占められる体積が大きいだけ希望を生み出し、その人にありもしない美少女の面影を追いかけさせる媚薬のやうな香を漂わせる機能があるのだと思います。
ですから、実物というのは極力出てきてはいけません。
これが同窓会で見る影も無く太った姿を見せ、男子を地獄の底に突き落とす元クラスのアイドルの発生理由だと思うのです。
つまりです、日本のジェイケエというのはオッサン連中の青春やら妄想やらを不当に背負わされた概念のやうに思えるのです。そうです。彼らは概念に熱を上げているだけなのです。
そのやうなピュアだか邪悪だか分からない希望的な思い出に支えられているから、ジェイケエというのは妄執の対象となり、純文学に使えるフェチズムを持ちながらアダルトの世界でも圧倒的な記号性と存在感を両立し得る存在になれたのだと思います。
然るに前述の「妄想が占められる体積が大きいだけ希望を生み出し、その人にありもしない美少女の面影を追いかけさせる媚薬のやうな香を漂わせる機能がある」という法則が最大限活かされるには、当然の事それが画として存在している比率が少ないか、仮に存在していても男性の潜在的、または顕在的欲望を満たす存在でなければ成立しないのです。
そうなるとジェイケエという素材がその存在を余す事発揮出来る場というのは、つまるところ文学かエロ同人だけのやうな気がするのです。
なぜ実在の美少女ではいけないのか。答えは簡単です。
一人一人の思い出に佇立するクラスのアイドルというのは千差万別でございますし、もしそこにザ・美少女が実体を持って存在するのであれば、そこには必ず思い出との齟齬が生まれるからです。
わずかな違いが大きな落胆を生みます。それは妄想の少女そのものでなければいけないのです。
それを埋める事が出来るのは、結局のところすべてが文字で表現されている「美」少女か、「ええい、細かい事は気にするな」と性の対象として割り切られた少女もどきだけなのです。
このやうな両立があるゆえに、ジェイケエというのは妄想の世界ですら歪な存在性を保つ事が出来るのです。
その卑劣なやり口はわざと腕を忘れてきたミロのビイナスと同じなのです。
結局のところ、そこには余白があり、わたし達はその余白を好き勝手彩った妄想で埋めて、「これは美しい!」と喜んでいるだけなのです。
嗚呼、深夜の3時過ぎに何を書いているでせう、わたくしは。
まあいいのです。これはきっと夜の贈り物なのです。
夜の贈り物を夕方に投稿して赤っ恥を書こうとする謎の自己犠牲なのです。
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