我以外、皆師なり。即ち、我に師無し。
- 2017/08/16
- 01:51
最近特に思ったのですが、文学というか、特に物語を書く人は特定の誰かに師事しない方が上手くいくような気がします。
確かにいい先生になれる人はいます。ですが、あまりにも僅かな数しかいません。その他は大体が○○文学賞何次選考に残りましたという人です。言い変えれば、作家になれない自分の後継者を生み出す人ばかりが幅をきかせているのです。
この手の人達にありがちなのが文章にバツはつけられないけど、肝心の読みたいと思わせる魅力が無いという欠点です。
この前見たとあるアマチュア作家は「有料で文章を見ます」とのたまっていましたが、いざその書評を見ると慇懃無礼なだけというか、ただ「陳腐」の二文字で済む書評を貧乏人のカルピスみたいに薄めているだけだったのですね。
書評をもらいたい人が何を望んでいるのかって訊かれたら、その書評を糧に成長したいからなのだと思うのです。だから多少辛口でも肥やしになるアドバイスは受けますよと、そういう事だと思うのです。
でも、あの書評じゃ何の肥やしにもならないよね、と。書評の書評をすると誰が得をするのか分からないマウンティング評価という印象でございました。こういう人に表現の自由を語って欲しくないですね。どうせ自分の美学にかこつけた悪口しか言わないんだから。
それにちゃんと観察する目があるなら、ただ読書をしているだけでもそれなりに技を盗んだりしてレベルアップするものです。一応言っておきますが技だけでなくアイディアまで盗むのはアウトです。
話は逸れましたが、三点リーダが二つ(……)とか、改行一字下げとか、わざわざお金を払ってまで学校で学ぶことなのかと不思議になります。
プロットにしてもそうです。なぜいちいち他人から教わらないと出来ないのでしょう?
そんな人はそもそも作家になれないというのに。
そう考えると、やはり書くか読むしかないのでしょうね。それが無尽蔵に出来る人は強いです。
芸術という分野で誰かに学ぶというのは大事ですが、少なくとも文学に限っては星の数ほどいる師匠から自分なりの正解を汲み取っていくしかないようです。
だから突き詰めた先には個性があるのでしょうね。
追記
たまたま好きだったネット小説が書籍化しているのを発見したのでリンクを張っておきます。
いやあ、エタった作品でも見捨てないとこういう事があるものですねえ。
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