スマホ短編「家族愛」
- 2017/06/03
- 12:33
「あれ、意味あるの?」
他人の価値観に水を差す趣味はないけれど、あんな光景を見るとつい毒突いてしまう。
「一応、お散歩だから」
斎藤さんは意味もなく、困った顔で見知らぬ人のフォローする。
目の前にはベビーカーを引く男性。年かさは二十から三十ぐらい。平日の昼間からイクメンぶりを披露している。
仕事はしているのだろうか。自分がどんな目で見られているか気にするほど大人でもないらしい。
いや、私は世のイクメンを攻撃するつもりはない。
やたらと攻撃的になるのはベビーカーの中身のせいだ。
彼が大事そうに運んでいるベビーカー。そこに座るのは人間じゃない。特別扱いされて自慢気に笑っているのは白い小型犬だった。
「親バカっていうのはある程度理解出来るけど、犬っていうのはね」
つい聞こえよがしに言ってしまった。普段はこんなに嫌な女でもないはずなのに。
そんな自己嫌悪を隠しながら斎藤さんと会話を保つ。
「最近は犬もペットというよりは家族だからね」
弱みを握られているでもないだろうに。また無意味に無職を擁護する。
ひと昔前だったら苛立たし気にタバコでもふかしたのだろう。それが無いだけ、まだ成長したという事か。
当の無職は聞こえたであろう嫌味を意に介する様子もなく、そのままカラカラとベビーカーを引いて行った。取りようによっては貴重なアドバイスなのに、きっと彼は人生を向上させるチャンスを逃したのだろう。
斎藤さんと別れ、真っ直ぐ帰宅した。窓枠に積もった埃が私を萎えさせる。
専業主婦が楽だという都市伝説は誰発信なのだろう。
最近は暑くなってきた。洗濯物が増えた上に湿度も高いからなかなか終わらない。洗濯機の底で裏返したままの服を見ると殺意すら覚えそうになる。一度本当にどこかへ消えてやろうか。
中学生になった息子も口ばっかり達者になり、かつての可愛らしさは夢の跡。夫と同様に朝食の作り方は朝起きる事だと思っている。
そんなろくでなしでも学校ではモテると聞く。女子の鑑識眼も地に堕ちた。
変化の無い生活を繰り返していると、誰となしに「私はお前の召使いじゃない」と叫びたくなる。
今日も息子の服は裏返しだ。こういうところだけ親に似るというのは誰が負わせた十字架なのか。
息子の服だけ元に裏返してたたむ。夫のは裏返したまま部屋に放り投げておいた。これでも悪癖を治さない理由は知らない。
いつからこの世界は働かない人を過剰に保護し始めたのだろう。真面目な人間が損ばかりする世の中の構造は確実におかしい。
だから苛ついたのか。今日見た無職は私の神経を逆撫でする存在だったに違いない。
きっと彼の奥さんは働きもしない亭主に愛想を尽かしているに違いない。いや、あれが結婚出来るとは思わないから、きっと親が泣いているのだろう。働きもせずに楽ばかりしやがって。
ああ、嫌だ嫌だ。この世界はあまりに不公平過ぎる。鬱々としながら洗濯機を取り込み、乾燥機をかけて、部屋を掃除した。
家事が一通り終わるとお茶を淹れてソファで横になる。こうやってオフをはっきりしておかないと精神的におかしくなる。
もう少ししたらまた夕食の用意をしないといけない。ああ、家政婦が欲しい。
だけどそれも叶わぬ夢だ。
子供もいるし、住宅ローンはいつまでも軽くならない罪のように家計にのしかかってくる。
私がどれだけ節約しても、夫は会社の付き合いだとかで下品な女の匂いを付けて帰って来る。気付かないフリをしてあげているけれど。
ああ、私も無職を満喫したい。
そう思いながらソファでうたた寝した。
知らぬ間に夕方になっていた。
「ああ、寝過ごしたな」と思うも、「今日はスーパーの惣菜でいいか」と開き直る。いつも奴隷のように働いているのだからこれぐらい許されるだろう。
スーパーへの道すがら、私はまたあの無職を見つけた。相変わらずベビーカーを引いている。お前も少しは働け。
嫌いな人ほど気になってしまう現象なのか、私は意味もなく無職の後をつけていた。理由はわからない。「働け」と一喝してやりたかったのかもしれないし、彼の生態を知りたかったのかもしれない。
無職はベビーカーを引いて公園に入って行った。木陰で犬を降ろして、胡座の上に乗せる。
視線の先には眩い木漏れ日。どうやら本当にただのんびりとしているだけらしい。その身分が羨ましい。
しかしこの男は何で生計を立てているのだろうと不思議になった。いや、ニートに生計を立てるも何も無いか。
とは言うものの、この男の生態に興味が増してきたので、それとなく接触してみようという気になってきた。まあ、たまにはそんな気まぐれを起こしてみるのもいいでしょう。
「ワンちゃん用のベビーカーなんてあるんですね」
前置きの挨拶も無く、いきなり訊いた。
言ってから乱暴過ぎたかと思ったけれど、一度口に出してしまったものはどうしようもない。
「ええ、まあ」
無職は素っ気ない返事。せっかくこちらから声をかけてあげたというのに。いや、それがこの人の無職たる所以か。
「お仕事はお休みなんですか?」
永遠に、とは付け加えない。
「はい。ちょっとばかり事情がありまして」
出た。こうやって仕事に就けない事を人やら環境のせいにするタイプ。
それなら掘り返して何がなんでも無職である自分に直面させてあげる。
「まあ、ご事情が。でもワンちゃんは喜ん
でいるみたいですね」
「だといいんですけどね」
「という事はワンちゃん関係のご事情で?」
言ってからさすがに踏み込み過ぎたんじゃないかと思ったけれど、言ってしまったものはどうしようもない。
「ええ、実はそうなんです」
無職からは意外な言葉が返ってきた。さすがに働かない理由を犬のせいにしようとする人は初めて見た。新人類発見か。
「末期ガンなんです。こいつ」
無職は誇らし気に笑う犬の頭を撫でた。
「あら、それは……」
「ごめんなさい」が出てこない。
思えば、自分のしでかした致命的な誤りを認める事が出来なかったのだろう。
「仕事であまり相手をしてやれませんでした。だから、最後ぐらいは少しでも傍にいてやろうと思って」
何も言えなかった。
さっきまで無職と心中で罵っていた男はどんな思いでこの時間を過ごしているのだろう?
斎藤さんの言葉を思い出した。
彼にとってこの犬は間違いなく家族の一員なのだろう。
夫が、息子が、末期ガンになったら、私はどう思うのだろう?
いや、たかがペットと比べるのはあまりにもナンセンスかもしれない。けれど、そうせずにはいられなかった。
爽やかなくせに重くなった空気を、陽光は照らしていた。
白い犬は彼の膝で笑っていた。
幸せそうに笑っていた。
他人の価値観に水を差す趣味はないけれど、あんな光景を見るとつい毒突いてしまう。
「一応、お散歩だから」
斎藤さんは意味もなく、困った顔で見知らぬ人のフォローする。
目の前にはベビーカーを引く男性。年かさは二十から三十ぐらい。平日の昼間からイクメンぶりを披露している。
仕事はしているのだろうか。自分がどんな目で見られているか気にするほど大人でもないらしい。
いや、私は世のイクメンを攻撃するつもりはない。
やたらと攻撃的になるのはベビーカーの中身のせいだ。
彼が大事そうに運んでいるベビーカー。そこに座るのは人間じゃない。特別扱いされて自慢気に笑っているのは白い小型犬だった。
「親バカっていうのはある程度理解出来るけど、犬っていうのはね」
つい聞こえよがしに言ってしまった。普段はこんなに嫌な女でもないはずなのに。
そんな自己嫌悪を隠しながら斎藤さんと会話を保つ。
「最近は犬もペットというよりは家族だからね」
弱みを握られているでもないだろうに。また無意味に無職を擁護する。
ひと昔前だったら苛立たし気にタバコでもふかしたのだろう。それが無いだけ、まだ成長したという事か。
当の無職は聞こえたであろう嫌味を意に介する様子もなく、そのままカラカラとベビーカーを引いて行った。取りようによっては貴重なアドバイスなのに、きっと彼は人生を向上させるチャンスを逃したのだろう。
斎藤さんと別れ、真っ直ぐ帰宅した。窓枠に積もった埃が私を萎えさせる。
専業主婦が楽だという都市伝説は誰発信なのだろう。
最近は暑くなってきた。洗濯物が増えた上に湿度も高いからなかなか終わらない。洗濯機の底で裏返したままの服を見ると殺意すら覚えそうになる。一度本当にどこかへ消えてやろうか。
中学生になった息子も口ばっかり達者になり、かつての可愛らしさは夢の跡。夫と同様に朝食の作り方は朝起きる事だと思っている。
そんなろくでなしでも学校ではモテると聞く。女子の鑑識眼も地に堕ちた。
変化の無い生活を繰り返していると、誰となしに「私はお前の召使いじゃない」と叫びたくなる。
今日も息子の服は裏返しだ。こういうところだけ親に似るというのは誰が負わせた十字架なのか。
息子の服だけ元に裏返してたたむ。夫のは裏返したまま部屋に放り投げておいた。これでも悪癖を治さない理由は知らない。
いつからこの世界は働かない人を過剰に保護し始めたのだろう。真面目な人間が損ばかりする世の中の構造は確実におかしい。
だから苛ついたのか。今日見た無職は私の神経を逆撫でする存在だったに違いない。
きっと彼の奥さんは働きもしない亭主に愛想を尽かしているに違いない。いや、あれが結婚出来るとは思わないから、きっと親が泣いているのだろう。働きもせずに楽ばかりしやがって。
ああ、嫌だ嫌だ。この世界はあまりに不公平過ぎる。鬱々としながら洗濯機を取り込み、乾燥機をかけて、部屋を掃除した。
家事が一通り終わるとお茶を淹れてソファで横になる。こうやってオフをはっきりしておかないと精神的におかしくなる。
もう少ししたらまた夕食の用意をしないといけない。ああ、家政婦が欲しい。
だけどそれも叶わぬ夢だ。
子供もいるし、住宅ローンはいつまでも軽くならない罪のように家計にのしかかってくる。
私がどれだけ節約しても、夫は会社の付き合いだとかで下品な女の匂いを付けて帰って来る。気付かないフリをしてあげているけれど。
ああ、私も無職を満喫したい。
そう思いながらソファでうたた寝した。
知らぬ間に夕方になっていた。
「ああ、寝過ごしたな」と思うも、「今日はスーパーの惣菜でいいか」と開き直る。いつも奴隷のように働いているのだからこれぐらい許されるだろう。
スーパーへの道すがら、私はまたあの無職を見つけた。相変わらずベビーカーを引いている。お前も少しは働け。
嫌いな人ほど気になってしまう現象なのか、私は意味もなく無職の後をつけていた。理由はわからない。「働け」と一喝してやりたかったのかもしれないし、彼の生態を知りたかったのかもしれない。
無職はベビーカーを引いて公園に入って行った。木陰で犬を降ろして、胡座の上に乗せる。
視線の先には眩い木漏れ日。どうやら本当にただのんびりとしているだけらしい。その身分が羨ましい。
しかしこの男は何で生計を立てているのだろうと不思議になった。いや、ニートに生計を立てるも何も無いか。
とは言うものの、この男の生態に興味が増してきたので、それとなく接触してみようという気になってきた。まあ、たまにはそんな気まぐれを起こしてみるのもいいでしょう。
「ワンちゃん用のベビーカーなんてあるんですね」
前置きの挨拶も無く、いきなり訊いた。
言ってから乱暴過ぎたかと思ったけれど、一度口に出してしまったものはどうしようもない。
「ええ、まあ」
無職は素っ気ない返事。せっかくこちらから声をかけてあげたというのに。いや、それがこの人の無職たる所以か。
「お仕事はお休みなんですか?」
永遠に、とは付け加えない。
「はい。ちょっとばかり事情がありまして」
出た。こうやって仕事に就けない事を人やら環境のせいにするタイプ。
それなら掘り返して何がなんでも無職である自分に直面させてあげる。
「まあ、ご事情が。でもワンちゃんは喜ん
でいるみたいですね」
「だといいんですけどね」
「という事はワンちゃん関係のご事情で?」
言ってからさすがに踏み込み過ぎたんじゃないかと思ったけれど、言ってしまったものはどうしようもない。
「ええ、実はそうなんです」
無職からは意外な言葉が返ってきた。さすがに働かない理由を犬のせいにしようとする人は初めて見た。新人類発見か。
「末期ガンなんです。こいつ」
無職は誇らし気に笑う犬の頭を撫でた。
「あら、それは……」
「ごめんなさい」が出てこない。
思えば、自分のしでかした致命的な誤りを認める事が出来なかったのだろう。
「仕事であまり相手をしてやれませんでした。だから、最後ぐらいは少しでも傍にいてやろうと思って」
何も言えなかった。
さっきまで無職と心中で罵っていた男はどんな思いでこの時間を過ごしているのだろう?
斎藤さんの言葉を思い出した。
彼にとってこの犬は間違いなく家族の一員なのだろう。
夫が、息子が、末期ガンになったら、私はどう思うのだろう?
いや、たかがペットと比べるのはあまりにもナンセンスかもしれない。けれど、そうせずにはいられなかった。
爽やかなくせに重くなった空気を、陽光は照らしていた。
白い犬は彼の膝で笑っていた。
幸せそうに笑っていた。
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