テンプレ
- 2017/05/13
- 13:05
今はsukekiyoの1stアルバムを聴きながらこの日記を書いているんだけど、思えばこのアルバムもずいぶん長いことスルメ的に味わっている気がする。
名盤なのは間違いないのだけど、一曲目の大人しい曲調を耳にしていてふと思った。
sukekiyoは言わずと知れたDIR EN GREYの京が率いるバンドなわけだけど、この前衛的なアプローチが成立したのは彼のネームバリューに寄る部分がかなりあるのだと思う。
どんなに才能溢れる人間でも、出だしからこれならよく分からない気持ち悪い奴らと罵られて終わりだろう。
作家業にも似たようなところがあるけれど、今の小説という枠組みから飛び出して独自の表現をやりたいなら、まず普通の作品で文学賞を獲らないといけないというジレンマがある。
しかも、仮に凄まじい競争率の中で受賞出来ても、その先には出版社との折衝というか、「そんなに自分らしく書きたいならお一人でやったらいかがですか?」という嫌味と闘わないといけない。大抵は勝てない。
そう考えると、前衛というか、野心的な実験精神はトップどころを突っ走る人達だけが預かれるボーナスみたいなものだったのかなと。
前にも同じ話をしたけど、有名な人じゃないと許されない表現を片っ端からやりまくった私はそういう文化背景で育った人からして相当生意気に映ったに違いない。
これは芸術系の世界ならあるあるネタなんだけど、どこぞの学校で芸術を教える人ってまずテンプレ的なやり方を全員に教えて、ハイクォリティなテンプレ生徒を優秀と見なす傾向があるように思える。
つまり、先生の理解を超えてしまうと駄作の烙印を押される事になる。
文学部の学生が半分は作家志望って聞いた時は心底ビックリしたんだけど、じゃあ文学部から本当に作家になった人って千人に一人でもいるのだろうか?
その数少ない受賞者とやらも本当に文学部を出ていないと商業作家になれなかったのだろうか?
いや〜それは無いんじゃないですかね?
ある時は才能がモノを言うと仰り、ある時は学校で教える基礎と並々ならぬ努力(しかもそれは才能にひどく依存している努力なのだ)こそが夢を実現させるとのたまう。どっちやねんと。
まあ結局どっちも必要なのだろう。それは百も承知なんだけど、本をお店に並べるまでの規格と、新しい世代の才能、及び読み手の趣味嗜好がずいぶんと乖離してやいませんかと。
まあ個人作家だからかなり気楽な立場から言ってはいるのだけど、岡目八目というように第三者からの視点っていうのは変にフィルタもかかっていないからしばしば正しい事がある。利害関係もないし。
最近は本もマジで売れないせいか、文学賞もギラギラした才能が賞金を奪い合うというよりはマイナースポーツの世界選手権的な、一生それで食っていくのは難しいから自己実現にせざるを得ないよねっていう世界になっている気がする。
読み手視点からすれば作家の執筆動機なんてどうでもいいわけで、単に作品が面白いか面白くないかしか興味は無い。
どうせ儲からないなら開き直って冒頭の前衛全開で新しい作品を出してくれれば私達個人作家の存在なんて消し炭に出来るのに、とも思う。
なんだかんだ小説にある程度のテンプレはある。
これぐらいの長さじゃないといけないとか、ヒロインが出てこないといけないとか、暗黙の了解的な要素を数えだしたら枚挙に暇が無い。
そこを個人作家がぶっ壊さないでどうすると思うのだ。
我々はいわゆる邪道を邪道と承知して確信犯的に獣道を踏みしめる者。行く先はでこぼこしているに決まっている。
舗装された道を行きたいなら圧倒的な力で文学賞を獲って華々しくデビューするしかない。それが出来たらの話だけど。
だが、邪道には邪道の道がある。
個人作家はAKBにはなれないだろうが恵比寿マスカッツになる事は可能だろう。
歪さを活かして伸ばしていけばいい。
無理くり昼間に咲いている月見草だってなかなか素敵じゃないか。
名盤なのは間違いないのだけど、一曲目の大人しい曲調を耳にしていてふと思った。
sukekiyoは言わずと知れたDIR EN GREYの京が率いるバンドなわけだけど、この前衛的なアプローチが成立したのは彼のネームバリューに寄る部分がかなりあるのだと思う。
どんなに才能溢れる人間でも、出だしからこれならよく分からない気持ち悪い奴らと罵られて終わりだろう。
作家業にも似たようなところがあるけれど、今の小説という枠組みから飛び出して独自の表現をやりたいなら、まず普通の作品で文学賞を獲らないといけないというジレンマがある。
しかも、仮に凄まじい競争率の中で受賞出来ても、その先には出版社との折衝というか、「そんなに自分らしく書きたいならお一人でやったらいかがですか?」という嫌味と闘わないといけない。大抵は勝てない。
そう考えると、前衛というか、野心的な実験精神はトップどころを突っ走る人達だけが預かれるボーナスみたいなものだったのかなと。
前にも同じ話をしたけど、有名な人じゃないと許されない表現を片っ端からやりまくった私はそういう文化背景で育った人からして相当生意気に映ったに違いない。
これは芸術系の世界ならあるあるネタなんだけど、どこぞの学校で芸術を教える人ってまずテンプレ的なやり方を全員に教えて、ハイクォリティなテンプレ生徒を優秀と見なす傾向があるように思える。
つまり、先生の理解を超えてしまうと駄作の烙印を押される事になる。
文学部の学生が半分は作家志望って聞いた時は心底ビックリしたんだけど、じゃあ文学部から本当に作家になった人って千人に一人でもいるのだろうか?
その数少ない受賞者とやらも本当に文学部を出ていないと商業作家になれなかったのだろうか?
いや〜それは無いんじゃないですかね?
ある時は才能がモノを言うと仰り、ある時は学校で教える基礎と並々ならぬ努力(しかもそれは才能にひどく依存している努力なのだ)こそが夢を実現させるとのたまう。どっちやねんと。
まあ結局どっちも必要なのだろう。それは百も承知なんだけど、本をお店に並べるまでの規格と、新しい世代の才能、及び読み手の趣味嗜好がずいぶんと乖離してやいませんかと。
まあ個人作家だからかなり気楽な立場から言ってはいるのだけど、岡目八目というように第三者からの視点っていうのは変にフィルタもかかっていないからしばしば正しい事がある。利害関係もないし。
最近は本もマジで売れないせいか、文学賞もギラギラした才能が賞金を奪い合うというよりはマイナースポーツの世界選手権的な、一生それで食っていくのは難しいから自己実現にせざるを得ないよねっていう世界になっている気がする。
読み手視点からすれば作家の執筆動機なんてどうでもいいわけで、単に作品が面白いか面白くないかしか興味は無い。
どうせ儲からないなら開き直って冒頭の前衛全開で新しい作品を出してくれれば私達個人作家の存在なんて消し炭に出来るのに、とも思う。
なんだかんだ小説にある程度のテンプレはある。
これぐらいの長さじゃないといけないとか、ヒロインが出てこないといけないとか、暗黙の了解的な要素を数えだしたら枚挙に暇が無い。
そこを個人作家がぶっ壊さないでどうすると思うのだ。
我々はいわゆる邪道を邪道と承知して確信犯的に獣道を踏みしめる者。行く先はでこぼこしているに決まっている。
舗装された道を行きたいなら圧倒的な力で文学賞を獲って華々しくデビューするしかない。それが出来たらの話だけど。
だが、邪道には邪道の道がある。
個人作家はAKBにはなれないだろうが恵比寿マスカッツになる事は可能だろう。
歪さを活かして伸ばしていけばいい。
無理くり昼間に咲いている月見草だってなかなか素敵じゃないか。
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