人外フィルタ
- 2017/05/06
- 12:39
最近になって積ん読→読むのを忘れて放置パターンだった電子書籍を読んでいる。
今さらながらに八幡謙介氏の「ヤドカリ」やらあおたけふみ氏(めきし粉氏の変名)の「猫の料簡」やらをサラサラと一気読みした。
どちらも短編で読みやすいからすぐに読了出来るのだけど、両作品を読んでいて気付いたのはアレかな。動物というか生き物というか、人外の題材は世間を当てこすりやすいというか、息苦しい社会をディスるためのフィルターには適しているのかなと。
最近はバカが増えたせいもあり、社会を風刺してウケを取るには割と露骨な表現をしないといけない部分があるのだけど、アレはあんまり好きじゃないというか、毒にエレガントさが足りない。もっと言うとただの悪口になってしまっていて、それだったら口の悪い黒人ラッパーの方が遥かに勇ましく芸術的に見える。
いくらインディーズ作家がプロとアマの間にぶらりんと浮いている存在とはいえ、それじゃあしょうもないだろうと思うのだけど、そう薄ら思っているところにこういう作品が出てくると嬉しくなる。文学の持ち得る役割を果たしている感があるからだ。
話は逸れたけど、動物というワンクッションを挟むと、毒っていうのはコーヒーみたいに舌触りが良くなるものだなと思う。ホメオパシー的な(笑)。
動物という題材が使われている作品って良くも悪くもお涙頂戴的な作品になりがちなんだけど、そういう枠を超えて人間社会を鋭角から突いてやろうという野心は性格の悪い人間を代表する作家として好感が持てる。
「猫の料簡」では救いの無い結末とわざと残した苦々しい余韻が好きで、なんとなく「この作者は長生き出来ないだろう」と思わせるような危うさもいい。
あと個人的にはどっちも短いのが良かった。
こういう表現はまさに短編がベストなのであって、こんな話を10万ページ以上に渡って読まされたらうんざりするに決まっている(笑)。
飽きっぽい時代には(っつっても結構前の作品ではあるけど)程よいバランスなのかなとも思う。
なんだかんだ忙しい人にとって短編小説はスナック菓子みたいにお手頃な趣味なんだなと。
そして、私はそんなスナックが大好きなんだなと思った今日この頃である。
今さらながらに八幡謙介氏の「ヤドカリ」やらあおたけふみ氏(めきし粉氏の変名)の「猫の料簡」やらをサラサラと一気読みした。
どちらも短編で読みやすいからすぐに読了出来るのだけど、両作品を読んでいて気付いたのはアレかな。動物というか生き物というか、人外の題材は世間を当てこすりやすいというか、息苦しい社会をディスるためのフィルターには適しているのかなと。
最近はバカが増えたせいもあり、社会を風刺してウケを取るには割と露骨な表現をしないといけない部分があるのだけど、アレはあんまり好きじゃないというか、毒にエレガントさが足りない。もっと言うとただの悪口になってしまっていて、それだったら口の悪い黒人ラッパーの方が遥かに勇ましく芸術的に見える。
いくらインディーズ作家がプロとアマの間にぶらりんと浮いている存在とはいえ、それじゃあしょうもないだろうと思うのだけど、そう薄ら思っているところにこういう作品が出てくると嬉しくなる。文学の持ち得る役割を果たしている感があるからだ。
話は逸れたけど、動物というワンクッションを挟むと、毒っていうのはコーヒーみたいに舌触りが良くなるものだなと思う。ホメオパシー的な(笑)。
動物という題材が使われている作品って良くも悪くもお涙頂戴的な作品になりがちなんだけど、そういう枠を超えて人間社会を鋭角から突いてやろうという野心は性格の悪い人間を代表する作家として好感が持てる。
「猫の料簡」では救いの無い結末とわざと残した苦々しい余韻が好きで、なんとなく「この作者は長生き出来ないだろう」と思わせるような危うさもいい。
あと個人的にはどっちも短いのが良かった。
こういう表現はまさに短編がベストなのであって、こんな話を10万ページ以上に渡って読まされたらうんざりするに決まっている(笑)。
飽きっぽい時代には(っつっても結構前の作品ではあるけど)程よいバランスなのかなとも思う。
なんだかんだ忙しい人にとって短編小説はスナック菓子みたいにお手頃な趣味なんだなと。
そして、私はそんなスナックが大好きなんだなと思った今日この頃である。
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