作家がコミュ障でいい?いやいや……
- 2017/03/19
- 00:00
前の記事で「作家は読者と文章でコミュニケーションしている」みたいな話を書いたけど、それについて最近特に実感した事がある。
というのも、よく言われているコミュ障って重度になると一般的な社会人だけでなく、作家としてすら致命傷になるんじゃないかって思った。
最近になって外人と話す機会が増えたのだけれど、さすがに回数が増えると小慣れてくるというか、私の貧弱な語彙でもそこそこ会話が出来るようになり、自分としては「ヘッタクソな英語だな」と思っていても、日本を出た事が無い日本人から見るとペラペラらしい。このレベルでペラペラって(笑)。
それはそうとして、英語で会話するためには語彙を増やさないといけないので、割と毎日英単語は増やしていった。牛歩並みの足取りだけど、それでも少しずつ話せるようにはなる。
それで現場にはもう一人仲間がいるんだけど、その人は割と長い時間外人とコミュニケーション取っているはずなのに、いまだに英語がさっぱり伸びていない。
まあ理由はごく単純で、その人は事あるごとに「アイキャントスピークイングリッシュ」って答えていた。もっと言うと逃げていた。
ついでに言うと、地味に英単語を増やしている私を小馬鹿にしていた。そのくせ通訳は頼んでくるんだけど。
たまに私が相手の言っている事が理解出来ずに難儀するんだけど、その時に嬉しそうな顔をするからこれも一種のルサンチマンなんだろう。
厳しい言い方かもしれないけど、こういう事をやっている人は自分の能力にブレーキをかけている。というのも、そもそもコミュニケーションしようとしていないからだ。
英語が達者な人は自らコミュニケーションの発信点となり、それを楽しもうとしている。だからそもそもコミュニケーション自体にストレスが無いし、楽しみながら語彙も慣用句も増やしていく。経験は雪だるま式に増えていく。
対してアイキャントスピークイングリッシュ組は端からコミュニケーションそのものを避けているので、そもそも英語を使う機会自体が少ないし、語彙の増えるスピードだって遅くなる。そりゃそうだろう。最初っから諦めているんだから。
この現象は何に対しても言える事で、例えば作家やらわなびやらが人間とコミュニケーションを取らないなら、その作品に出てくる登場人物は実体と乖離していく。
こうやって見ると当たり前ではあるのだけれど、例えばこんな事もないか?
警察の知り合いがいるのに自分一人で調査を済ませようと資料を買い揃え、裏を取る作業に勤しむ人っていないか?
そんな事するぐらいなら電話でもして直接訊いちゃえばいいじゃんと思う。
作家が対人コミュニケーションが苦手というのは確かにいくらか実例があるけれど、話してみたらちょっとした雑談でどっかんどっかん笑わせる人だって沢山いるわけで、そこにはコミュニケーションという主題に共通する骨組みがあるのではないか。
話はかなり迂回したけど、何に対しても興味を持って触れたり話しかけられる能力も一つの才能なのではないかと。
私が仲間にアイキャントスピークイングリッシュ禁止令を出したように(笑)創作家は僕コミュ障です発言を己に禁じた方がよろしいかと。
きっとコミュ障バリアを作っている人は、人生で経験出来るものにすら強烈なバリアを張って損しているだろう。
それは恥をかく機会とともに、学ぶ機会すら堰き止めているのだから。
というのも、よく言われているコミュ障って重度になると一般的な社会人だけでなく、作家としてすら致命傷になるんじゃないかって思った。
最近になって外人と話す機会が増えたのだけれど、さすがに回数が増えると小慣れてくるというか、私の貧弱な語彙でもそこそこ会話が出来るようになり、自分としては「ヘッタクソな英語だな」と思っていても、日本を出た事が無い日本人から見るとペラペラらしい。このレベルでペラペラって(笑)。
それはそうとして、英語で会話するためには語彙を増やさないといけないので、割と毎日英単語は増やしていった。牛歩並みの足取りだけど、それでも少しずつ話せるようにはなる。
それで現場にはもう一人仲間がいるんだけど、その人は割と長い時間外人とコミュニケーション取っているはずなのに、いまだに英語がさっぱり伸びていない。
まあ理由はごく単純で、その人は事あるごとに「アイキャントスピークイングリッシュ」って答えていた。もっと言うと逃げていた。
ついでに言うと、地味に英単語を増やしている私を小馬鹿にしていた。そのくせ通訳は頼んでくるんだけど。
たまに私が相手の言っている事が理解出来ずに難儀するんだけど、その時に嬉しそうな顔をするからこれも一種のルサンチマンなんだろう。
厳しい言い方かもしれないけど、こういう事をやっている人は自分の能力にブレーキをかけている。というのも、そもそもコミュニケーションしようとしていないからだ。
英語が達者な人は自らコミュニケーションの発信点となり、それを楽しもうとしている。だからそもそもコミュニケーション自体にストレスが無いし、楽しみながら語彙も慣用句も増やしていく。経験は雪だるま式に増えていく。
対してアイキャントスピークイングリッシュ組は端からコミュニケーションそのものを避けているので、そもそも英語を使う機会自体が少ないし、語彙の増えるスピードだって遅くなる。そりゃそうだろう。最初っから諦めているんだから。
この現象は何に対しても言える事で、例えば作家やらわなびやらが人間とコミュニケーションを取らないなら、その作品に出てくる登場人物は実体と乖離していく。
こうやって見ると当たり前ではあるのだけれど、例えばこんな事もないか?
警察の知り合いがいるのに自分一人で調査を済ませようと資料を買い揃え、裏を取る作業に勤しむ人っていないか?
そんな事するぐらいなら電話でもして直接訊いちゃえばいいじゃんと思う。
作家が対人コミュニケーションが苦手というのは確かにいくらか実例があるけれど、話してみたらちょっとした雑談でどっかんどっかん笑わせる人だって沢山いるわけで、そこにはコミュニケーションという主題に共通する骨組みがあるのではないか。
話はかなり迂回したけど、何に対しても興味を持って触れたり話しかけられる能力も一つの才能なのではないかと。
私が仲間にアイキャントスピークイングリッシュ禁止令を出したように(笑)創作家は僕コミュ障です発言を己に禁じた方がよろしいかと。
きっとコミュ障バリアを作っている人は、人生で経験出来るものにすら強烈なバリアを張って損しているだろう。
それは恥をかく機会とともに、学ぶ機会すら堰き止めているのだから。
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