1000回目の駄文
- 2017/03/11
- 14:18
どうもこれがブログを始めてから1000個目の記事になるらしい。
別に大してめでたい事ではないので、おめでとうは心の中だけで思ってくれたら結構。きっと想いは届くだろう。
本来なら記念すべき回だのなんだの言ってイベントと称した販促をするところなんだろうけれど、いかんせんそんな事をやっている暇が無い。というわけで、せめてポジティブな話でもしようか。
もう数年前になってしまうのかと寒気すらするのだけれど、「鉄姫」を書いた当時にとても公開出来なかった裏話がある。
ラストの一文で顰蹙を買った本作だが、ストーリー全体に関して見ると結構シリアスで、メジャーバンドが辿るあるあるを生々しく描けていたと今でも思う。
執筆当初のアイディアはぶっちゃけ最後の一文をやりたいというモチベーションが99パーセントだったので(笑)もっと内容はライトになるはずだった。
だが、私生活の面というか、リアル方面でアクシデントが起きた。
というのも、リアル友人が精神病棟に入ると連絡したきり、しばらく音信不通になった。知っている人は知っているだろうが、精神病棟はろくなところではない。
精神に異常をきたした人間を閉鎖的な空間に押し込める行為そのものが精神の解放からあまりにも乖離した治療法であると言えるし、あの施設に行って良くなった人を見た事が無い。
正直なところ、対応に困った。
誰だって悪くなろうとして病院なんか行かない。良くなろうとしている人をどう導くかという点において、どうしたらいいかわからなかった。
ごく私的な事件ではあったものの、それは物語に波紋を起こし、ストーリーの改変という波へと形を変えていった。
この物語はただ消化されるだけのものに終始してはいけない。
誰かに生きる希望を与え、冷え切った胸に一筋の光を差し込めるような、そんな作品に仕上げるべきだ。
心からそう思った。
そういう意味では、友人の死がきっかけで一気に書き上げた「プロミス・リング」と執筆動機は似ているのかもしれない。
ちなみにその友人は無事に退院し、今は元気にやっているらしいのだけれど、今思えば作中で綴られた大切な人への想いというエレメントではかなり感情の波長は似ていたのかもしれない。
メタルやらハードロック系の世界では社会から虐げられているような人も数多くいて、音楽だけがある人の希望を支えている事もしばしばある。
そういう背景もあり、あの作品を書く時には自分の愛するバンドに生涯の献身を誓い、意味の分からない英詞に涙を流す一途な馬鹿野郎達の魂に響くような作品が書きたかった。実際にいくらかはそれが出来たのだと思う。
話は逸れたけれど、前から言っているように私は器用さという要素から恐ろしいまでに遠いところにいる。表現者という人種は全体的にそうなのかもしれない。
ただ愛を伝えるためだけにくっさい詩を書き、分娩顔負けの苦しみを味わいつつ物語を生み出し、天使に溜め息をつかせるような音色を生み出すべく日夜苦心する。どう考えても非効率だ。
それでも、その不器用さが届く時はたしかにあるのだし、そんな人にしか奏でられない旋律だってある。
かなり回りくどくはなったけど、訳のわからない状況下で「鉄姫」を書いたのも、要は作品を通じて誰かに生きる希望を与えたかっただけなのだと思う。
友人については(もちろん直接訊くなんて野暮な事はしないから)本人がどう受け取ったのかも、そもそも作品を読んでいるかすらも分からない。だけど海に向かって投げるボトルメッセージなんてそんなものじゃないか?
こちらとしては、届く事を、響く事を祈りながらその軌跡を眺めるしか出来ない。リアルの世界に筋書きなんかいらない。
結果がどうあれ、少なくとも本人に流れ着く過程でたくさんの人が宛名の無い手紙を読んでくれた。
その反応はすべてが優しいものではなかったけれど、琴線に触れた人には全般的に感動を与えられたみたいだし、たとえ小さな反応でも誰かの心に小さな火を灯す事が出来るというのは創作者としてこれ以上ない喜びでもあるわけだ。
ぷかぷかと水面を漂うボトルメッセージがゆらゆらと温かい波紋を広げていくのが好きだ。
あの作品を書いている時に色んな人の顔が脳裏をよぎった。
もうこの世にいない人やら、一緒に酒を飲んでは馬鹿騒ぎした友人、どこにいるのかも分からない恩人……。
色々な人に自分の物語が届き、その人だけの音を奏でられたらいいなと心から思って筆を走らせた。
これから自分がどんな物語を紡いでいくのか、それはちょっと分からない。
だけど、誰かの心を打つというか、もっと迷惑な表現だと、誰かの心に何がしかの爪痕を残すために書いていくというスタンスはこれからも変わらないのだろうと思う。
結局はどこまでも面倒くさい人間が取る想いの伝え方なのだと思う。文学というものは。
そして、作家という生き物は自分の想いを伝えるために、どこまでもしんどく回りくどい手法を取らずにはいられない習性の人種なのだろう。
想いは指に宿り、文字を通して誰かに届くのを待っている。
ゆえに紙に染み付いたインクは、想いの残り香は、いつまでも人の心にさえ染み込む事が出来るのである。
別に大してめでたい事ではないので、おめでとうは心の中だけで思ってくれたら結構。きっと想いは届くだろう。
本来なら記念すべき回だのなんだの言ってイベントと称した販促をするところなんだろうけれど、いかんせんそんな事をやっている暇が無い。というわけで、せめてポジティブな話でもしようか。
もう数年前になってしまうのかと寒気すらするのだけれど、「鉄姫」を書いた当時にとても公開出来なかった裏話がある。
ラストの一文で顰蹙を買った本作だが、ストーリー全体に関して見ると結構シリアスで、メジャーバンドが辿るあるあるを生々しく描けていたと今でも思う。
執筆当初のアイディアはぶっちゃけ最後の一文をやりたいというモチベーションが99パーセントだったので(笑)もっと内容はライトになるはずだった。
だが、私生活の面というか、リアル方面でアクシデントが起きた。
というのも、リアル友人が精神病棟に入ると連絡したきり、しばらく音信不通になった。知っている人は知っているだろうが、精神病棟はろくなところではない。
精神に異常をきたした人間を閉鎖的な空間に押し込める行為そのものが精神の解放からあまりにも乖離した治療法であると言えるし、あの施設に行って良くなった人を見た事が無い。
正直なところ、対応に困った。
誰だって悪くなろうとして病院なんか行かない。良くなろうとしている人をどう導くかという点において、どうしたらいいかわからなかった。
ごく私的な事件ではあったものの、それは物語に波紋を起こし、ストーリーの改変という波へと形を変えていった。
この物語はただ消化されるだけのものに終始してはいけない。
誰かに生きる希望を与え、冷え切った胸に一筋の光を差し込めるような、そんな作品に仕上げるべきだ。
心からそう思った。
そういう意味では、友人の死がきっかけで一気に書き上げた「プロミス・リング」と執筆動機は似ているのかもしれない。
ちなみにその友人は無事に退院し、今は元気にやっているらしいのだけれど、今思えば作中で綴られた大切な人への想いというエレメントではかなり感情の波長は似ていたのかもしれない。
メタルやらハードロック系の世界では社会から虐げられているような人も数多くいて、音楽だけがある人の希望を支えている事もしばしばある。
そういう背景もあり、あの作品を書く時には自分の愛するバンドに生涯の献身を誓い、意味の分からない英詞に涙を流す一途な馬鹿野郎達の魂に響くような作品が書きたかった。実際にいくらかはそれが出来たのだと思う。
話は逸れたけれど、前から言っているように私は器用さという要素から恐ろしいまでに遠いところにいる。表現者という人種は全体的にそうなのかもしれない。
ただ愛を伝えるためだけにくっさい詩を書き、分娩顔負けの苦しみを味わいつつ物語を生み出し、天使に溜め息をつかせるような音色を生み出すべく日夜苦心する。どう考えても非効率だ。
それでも、その不器用さが届く時はたしかにあるのだし、そんな人にしか奏でられない旋律だってある。
かなり回りくどくはなったけど、訳のわからない状況下で「鉄姫」を書いたのも、要は作品を通じて誰かに生きる希望を与えたかっただけなのだと思う。
友人については(もちろん直接訊くなんて野暮な事はしないから)本人がどう受け取ったのかも、そもそも作品を読んでいるかすらも分からない。だけど海に向かって投げるボトルメッセージなんてそんなものじゃないか?
こちらとしては、届く事を、響く事を祈りながらその軌跡を眺めるしか出来ない。リアルの世界に筋書きなんかいらない。
結果がどうあれ、少なくとも本人に流れ着く過程でたくさんの人が宛名の無い手紙を読んでくれた。
その反応はすべてが優しいものではなかったけれど、琴線に触れた人には全般的に感動を与えられたみたいだし、たとえ小さな反応でも誰かの心に小さな火を灯す事が出来るというのは創作者としてこれ以上ない喜びでもあるわけだ。
ぷかぷかと水面を漂うボトルメッセージがゆらゆらと温かい波紋を広げていくのが好きだ。
あの作品を書いている時に色んな人の顔が脳裏をよぎった。
もうこの世にいない人やら、一緒に酒を飲んでは馬鹿騒ぎした友人、どこにいるのかも分からない恩人……。
色々な人に自分の物語が届き、その人だけの音を奏でられたらいいなと心から思って筆を走らせた。
これから自分がどんな物語を紡いでいくのか、それはちょっと分からない。
だけど、誰かの心を打つというか、もっと迷惑な表現だと、誰かの心に何がしかの爪痕を残すために書いていくというスタンスはこれからも変わらないのだろうと思う。
結局はどこまでも面倒くさい人間が取る想いの伝え方なのだと思う。文学というものは。
そして、作家という生き物は自分の想いを伝えるために、どこまでもしんどく回りくどい手法を取らずにはいられない習性の人種なのだろう。
想いは指に宿り、文字を通して誰かに届くのを待っている。
ゆえに紙に染み付いたインクは、想いの残り香は、いつまでも人の心にさえ染み込む事が出来るのである。
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