目的からして間違ってる
- 2016/11/12
- 00:54
何をするにしてもその目的を明確にしておく事は大事です。
というのも、行為の根底にある目的は顕在的であれ潜在的であれ、何らかのゴールへと繋がっているからです。
例えば私が他人のレビューを読む時は、自分の知らない(面白い)作品に出会えるかを基準にしています。
自ずと読むレビューはポジティブなものが多くなるし、もっと言うと、つまらない作品については別に知らなくてもいい。私の目的は未知の面白い作品に出会う事だからです。批評家気取りの書いた匠気で満ちた文章なんぞ求めてはいないのです。
よく「良いレビュー」についての議論が政治と宗教並みに白熱したりしますが、それは各々が良いレビューをどう定義しているか違うからそうなるのです。
ある人は書き手の筆力にレビューの価値を置いているかもしれません。
が、私の感覚だと、そういう人は他人の結婚式にド派手なドレスでやって来ては主役を食おうとする女並みに鼻につく存在で――彼女達はどこに行っても自分が主役だと思っています――つまるところくたばりやがれです(笑)。
私の目的はあくまで未読の面白い作品を見つける事ですから、レビューの巧拙なんかむしろどうでも良くて、その作品に注がれた熱量を見たいのです。
魅力的な作品ならレビュアーの口調も熱を帯びるでしょうし、何が彼をそこまで夢中にさせたのかという興味が沸いてきます。
世間一般に言われている「良いレビュアー」はある程度の合理性を持ち、自分の意見を熱く語れる人である事が多いのです。彼が誤読もはなはだしい書評を書いても、愛がそれを隠してくれる(笑)。
実際にそういうレビューの方が購買意欲を引き込んだりしますよね。
回りくどくはなりましたが、何を書くにしても、何を目的にしているのかを決めると、こんな相談をもう一人の自分と出来るようになります。
「さて、俺はこの作品の面白さを世界中に発信しようとしている。それじゃあこの欠点を指摘してあげる行為は必要か?」
それで必要だったら欠点を指摘すればいいんじゃないですか?
読者の興を削がない自信があるならですが。
話は逸れましたけど、いかにも衒学的な書評もどきばかりを書いているレビュアーは何を目的にしているのでしょうね?
つまらない作品を読んでしまったなら、さっさと面白い作家に乗り換えたらいい話だと思うのですが。
それでもわざわざ人の創作物を貶めようと努力するなら、そこに嫌悪感が募るのなんて当たり前じゃないでしょうか?
ごまかしても、人は何も生み出さずに存在感だけ示そうという甘ったれた虚栄心を見抜いてしまうものです。
話をポジティブな方向に戻すと、面白い作品を仮想空間の誰かに友達感覚で知らしめようとしている人は、意識していようがいまいが楽しい空間を誰かと共有しようと努力しているわけです。
繋がりを生み出す感情もポジティブなモチベーションの方が強くなる傾向にあります。精神的な負担がかからないからです。これもやり過ぎればお友達書評と罵られる事になりますが。
だから、要は面白い人だけに声をかけて繋がればいいんですよ。つまらない人が努力したって面白くなるわけじゃないし(笑)。
それに今は分からなくても、読書体験の上積みで後からその人の面白さを理解出来る瞬間ってあるじゃないですか。そういう機会を得るまでは不用意に諍いを起こさない事がいいに決まってますよね?
さて、話は盛大に脱線しましたが、書評に限らず何かをする時に確固たる目的を羅針盤にするという、基本的過ぎるがゆえにかえっておろそかにしがちな鉄則を忘れてはいけません。
何をしたいのかを明確にしておけば、どれだけ脱線しようが目的地には行けるものなのです。
作家は時々内省しないといけません。読者を楽しませる作品を書くという目標が、知らぬ間に「読者に好かれるようにしよう」とか、「自分の技巧を見せつけてやろう」という方向にシフトしていないかとね。
ものすごく単純な事に聞こえるかもしれませんが、時々守られるべき指針が捻じ曲げられていないか、あなたは注意深く観察せねばなりません。
例としては飛躍しますが、革命軍やら宗教団体がよく内輪で分裂するのは、基本的なゴールを作らず、各々が好き勝手に目標を解釈し、思い思いに進むからです。
それだと双方の考え方に大きな齟齬が起きてしまいます。救う行為が(知らぬ間に)正しさを証明する目標にすり替わったりしてしまうわけですね。
今一度自分が何をやりたいのか。何をしたいのかを見つめ直してみるのもいいでしょう。
目的地を持たない船は、果てしなく海を彷徨い、最後には幽霊船になってしまうのです。
というのも、行為の根底にある目的は顕在的であれ潜在的であれ、何らかのゴールへと繋がっているからです。
例えば私が他人のレビューを読む時は、自分の知らない(面白い)作品に出会えるかを基準にしています。
自ずと読むレビューはポジティブなものが多くなるし、もっと言うと、つまらない作品については別に知らなくてもいい。私の目的は未知の面白い作品に出会う事だからです。批評家気取りの書いた匠気で満ちた文章なんぞ求めてはいないのです。
よく「良いレビュー」についての議論が政治と宗教並みに白熱したりしますが、それは各々が良いレビューをどう定義しているか違うからそうなるのです。
ある人は書き手の筆力にレビューの価値を置いているかもしれません。
が、私の感覚だと、そういう人は他人の結婚式にド派手なドレスでやって来ては主役を食おうとする女並みに鼻につく存在で――彼女達はどこに行っても自分が主役だと思っています――つまるところくたばりやがれです(笑)。
私の目的はあくまで未読の面白い作品を見つける事ですから、レビューの巧拙なんかむしろどうでも良くて、その作品に注がれた熱量を見たいのです。
魅力的な作品ならレビュアーの口調も熱を帯びるでしょうし、何が彼をそこまで夢中にさせたのかという興味が沸いてきます。
世間一般に言われている「良いレビュアー」はある程度の合理性を持ち、自分の意見を熱く語れる人である事が多いのです。彼が誤読もはなはだしい書評を書いても、愛がそれを隠してくれる(笑)。
実際にそういうレビューの方が購買意欲を引き込んだりしますよね。
回りくどくはなりましたが、何を書くにしても、何を目的にしているのかを決めると、こんな相談をもう一人の自分と出来るようになります。
「さて、俺はこの作品の面白さを世界中に発信しようとしている。それじゃあこの欠点を指摘してあげる行為は必要か?」
それで必要だったら欠点を指摘すればいいんじゃないですか?
読者の興を削がない自信があるならですが。
話は逸れましたけど、いかにも衒学的な書評もどきばかりを書いているレビュアーは何を目的にしているのでしょうね?
つまらない作品を読んでしまったなら、さっさと面白い作家に乗り換えたらいい話だと思うのですが。
それでもわざわざ人の創作物を貶めようと努力するなら、そこに嫌悪感が募るのなんて当たり前じゃないでしょうか?
ごまかしても、人は何も生み出さずに存在感だけ示そうという甘ったれた虚栄心を見抜いてしまうものです。
話をポジティブな方向に戻すと、面白い作品を仮想空間の誰かに友達感覚で知らしめようとしている人は、意識していようがいまいが楽しい空間を誰かと共有しようと努力しているわけです。
繋がりを生み出す感情もポジティブなモチベーションの方が強くなる傾向にあります。精神的な負担がかからないからです。これもやり過ぎればお友達書評と罵られる事になりますが。
だから、要は面白い人だけに声をかけて繋がればいいんですよ。つまらない人が努力したって面白くなるわけじゃないし(笑)。
それに今は分からなくても、読書体験の上積みで後からその人の面白さを理解出来る瞬間ってあるじゃないですか。そういう機会を得るまでは不用意に諍いを起こさない事がいいに決まってますよね?
さて、話は盛大に脱線しましたが、書評に限らず何かをする時に確固たる目的を羅針盤にするという、基本的過ぎるがゆえにかえっておろそかにしがちな鉄則を忘れてはいけません。
何をしたいのかを明確にしておけば、どれだけ脱線しようが目的地には行けるものなのです。
作家は時々内省しないといけません。読者を楽しませる作品を書くという目標が、知らぬ間に「読者に好かれるようにしよう」とか、「自分の技巧を見せつけてやろう」という方向にシフトしていないかとね。
ものすごく単純な事に聞こえるかもしれませんが、時々守られるべき指針が捻じ曲げられていないか、あなたは注意深く観察せねばなりません。
例としては飛躍しますが、革命軍やら宗教団体がよく内輪で分裂するのは、基本的なゴールを作らず、各々が好き勝手に目標を解釈し、思い思いに進むからです。
それだと双方の考え方に大きな齟齬が起きてしまいます。救う行為が(知らぬ間に)正しさを証明する目標にすり替わったりしてしまうわけですね。
今一度自分が何をやりたいのか。何をしたいのかを見つめ直してみるのもいいでしょう。
目的地を持たない船は、果てしなく海を彷徨い、最後には幽霊船になってしまうのです。
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