文学に必要なのは野心である
- 2016/10/20
- 21:20
文学の原動力とは何だろうと考えた時、それは野心なのではないかという考えが出てきました。
思えば筆が乗った作品は新しい試みに挑戦する野心が全身から湧き出て、ガマン汁のように脳裏を滴る創造性をなんとかかんとかどうにかこうにかコントロールしつつ、それが上手くいった時にはいつもノリノリで書けたと記憶しています。
たとえば「ジャスティス」なんかはスプラッターで人の道徳心を向上させる事は可能かという挑戦だったし、「鬼娘の千倍返し」はただの復讐譚から戦争やら歪な正義へのアンチテーゼに形を変えていきました。「名無しの挽歌」はわなびというフィルターを通して、何者かになろうとするもなれずに懊悩する現代人の苦しみや渇望を描いてきました。
普通だったら文学賞を獲った人がウン十年かけてやるような事を、私はセルパブという表現形態で片っ端からやりまくるという暴挙に出たのですね(笑)。
最近は紙本を出しても相当なヒットを出さないと本屋から返ってきてしまうし、ひと昔前に投稿してた公募にはまるで興味が無くなってしまいましたね。賞金は欲しいけど(笑)。
賞金を抜きにしたら、やはり「こんな表現がやりたい」という文学的野心が私を執筆へと妄執させるモチベーションになるんですかね。だから私は作品ごとにまるで違う作風になるんですけど。
ところで、どうも私が書いた一人称作品はどれも私小説に見えるらしいです。
「名無しの挽歌」でも何人かにそんな事を言われた記憶があるし、「入間失格」のリリース直後に「自伝ですか?」っていう質問をされた事もあります。さすがに向精神薬にハマって上司を撲殺し、その日中に中学生と性的関係を持った人がその辺を歩いているとは思えませんが(笑)。
あとは「泡姫ありえない」も自叙伝かって訊かれましたねえ。どうやら何を書いても自伝と間違えられるみたいです。
で、なんでこんな話をしたんだっけ?(笑)
ああ、そうそう、小説っていう表現手法って、大なり小なり誰かの人生を書く部分があって、その穴を真っ直ぐどんどん深く掘っていく人もいれば、掘った穴に野心を詰め込んでいく人もいるんだなと。
誰でも「世の中にこんな事を伝えたい」っていう想いはあるでしょうが、文章で自分の伝えたい事をそのまま書くと、大体はただのお説教話になってしまうのですね。
そこで便利なのが小説という表現技法で、自分の主張を物語という皮で包んで客に食べさせるんですね。私はしょっちゅう激辛わさびを仕込みますが(笑)。
あ、もっと良い喩えを思いついた。
言わばアレですよ。女性が伝えたい愛情を手料理に包み込んで、彼氏に食べさせる的な考え方ですよ。やっぱり私は激辛わさびを仕込むんですけど(笑)。
それはさておき、文学的野心だけがあってもダメなわけで、自分の表現したい事に技術が追いついていないといけないんですね。でないとただの独りよがりになってしまう。
やっぱり小説が巧い人はそれだけ練習を重ねているというか書いた文字数が多いわけで、技巧の取得は頭に描いたイメージをそのまま形にしていく回数に比例して向上するのだと思います。
過去の二番煎じでもダメだし、先走り汁の滴る中二病作品でもダメ。でも心の片隅には中二病を佇ませておかないといけない。なかなか難儀ですね(笑)。
話はわけわかんないぐらい逸れましたが、文学的野心が作家の燃料になっているのはある程度間違いないでしょう。
やっぱり書く事が小説上達の近道ですね。「書けばいいってもんじゃない」のは当たり前ですが、それを言っている人で私より巧い人は見た事がありません(笑)。
軽く油を撒きました(笑)。
さて、もう何時間もすると「作家になれなかったオッサンが気持ち悪い理由」が発売され、可及的速やかに99円→250円になります。
いや~もう低レビューの下書きを用意していて、リリース直後に投じる準備をしている人とかいるんでしょうね(笑)。
「ブログでやれ」
「金を払う作品じゃない」
「自己満足」
「陳腐」
「稚拙」
「自意識ばかりが悪目立ちしている」
と、そんな事を書かれるでしょう。
ですが、知ったこっちゃねえぞと(笑)。
お前が叩けば叩くほど、私という存在は大きくなるのだと言ってやりますよ。
(マリリン・マンソン風)
カスタマーレビューで傷付いた方や、毒舌エッセイが好きな方はぜひどうぞ。
思えば筆が乗った作品は新しい試みに挑戦する野心が全身から湧き出て、ガマン汁のように脳裏を滴る創造性をなんとかかんとかどうにかこうにかコントロールしつつ、それが上手くいった時にはいつもノリノリで書けたと記憶しています。
たとえば「ジャスティス」なんかはスプラッターで人の道徳心を向上させる事は可能かという挑戦だったし、「鬼娘の千倍返し」はただの復讐譚から戦争やら歪な正義へのアンチテーゼに形を変えていきました。「名無しの挽歌」はわなびというフィルターを通して、何者かになろうとするもなれずに懊悩する現代人の苦しみや渇望を描いてきました。
普通だったら文学賞を獲った人がウン十年かけてやるような事を、私はセルパブという表現形態で片っ端からやりまくるという暴挙に出たのですね(笑)。
最近は紙本を出しても相当なヒットを出さないと本屋から返ってきてしまうし、ひと昔前に投稿してた公募にはまるで興味が無くなってしまいましたね。賞金は欲しいけど(笑)。
賞金を抜きにしたら、やはり「こんな表現がやりたい」という文学的野心が私を執筆へと妄執させるモチベーションになるんですかね。だから私は作品ごとにまるで違う作風になるんですけど。
ところで、どうも私が書いた一人称作品はどれも私小説に見えるらしいです。
「名無しの挽歌」でも何人かにそんな事を言われた記憶があるし、「入間失格」のリリース直後に「自伝ですか?」っていう質問をされた事もあります。さすがに向精神薬にハマって上司を撲殺し、その日中に中学生と性的関係を持った人がその辺を歩いているとは思えませんが(笑)。
あとは「泡姫ありえない」も自叙伝かって訊かれましたねえ。どうやら何を書いても自伝と間違えられるみたいです。
で、なんでこんな話をしたんだっけ?(笑)
ああ、そうそう、小説っていう表現手法って、大なり小なり誰かの人生を書く部分があって、その穴を真っ直ぐどんどん深く掘っていく人もいれば、掘った穴に野心を詰め込んでいく人もいるんだなと。
誰でも「世の中にこんな事を伝えたい」っていう想いはあるでしょうが、文章で自分の伝えたい事をそのまま書くと、大体はただのお説教話になってしまうのですね。
そこで便利なのが小説という表現技法で、自分の主張を物語という皮で包んで客に食べさせるんですね。私はしょっちゅう激辛わさびを仕込みますが(笑)。
あ、もっと良い喩えを思いついた。
言わばアレですよ。女性が伝えたい愛情を手料理に包み込んで、彼氏に食べさせる的な考え方ですよ。やっぱり私は激辛わさびを仕込むんですけど(笑)。
それはさておき、文学的野心だけがあってもダメなわけで、自分の表現したい事に技術が追いついていないといけないんですね。でないとただの独りよがりになってしまう。
やっぱり小説が巧い人はそれだけ練習を重ねているというか書いた文字数が多いわけで、技巧の取得は頭に描いたイメージをそのまま形にしていく回数に比例して向上するのだと思います。
過去の二番煎じでもダメだし、先走り汁の滴る中二病作品でもダメ。でも心の片隅には中二病を佇ませておかないといけない。なかなか難儀ですね(笑)。
話はわけわかんないぐらい逸れましたが、文学的野心が作家の燃料になっているのはある程度間違いないでしょう。
やっぱり書く事が小説上達の近道ですね。「書けばいいってもんじゃない」のは当たり前ですが、それを言っている人で私より巧い人は見た事がありません(笑)。
軽く油を撒きました(笑)。
さて、もう何時間もすると「作家になれなかったオッサンが気持ち悪い理由」が発売され、可及的速やかに99円→250円になります。
いや~もう低レビューの下書きを用意していて、リリース直後に投じる準備をしている人とかいるんでしょうね(笑)。
「ブログでやれ」
「金を払う作品じゃない」
「自己満足」
「陳腐」
「稚拙」
「自意識ばかりが悪目立ちしている」
と、そんな事を書かれるでしょう。
ですが、知ったこっちゃねえぞと(笑)。
お前が叩けば叩くほど、私という存在は大きくなるのだと言ってやりますよ。
(マリリン・マンソン風)
カスタマーレビューで傷付いた方や、毒舌エッセイが好きな方はぜひどうぞ。
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