見る側に回ったオッサンが堕ちていくまでの概説
- 2016/10/02
- 22:22
創作家が辿る末路の一つで「見る側に回る」というものがあります。
それは文字通り創作活動そのものから離れて、他者の作品を批評する側に回るという事です。公募に疲れ果てたオッサンがよく取る逃げ道ですね。
現役を続けたいなら、決してこのような試みをしてはいけません。
というのも、一度観客席に行ってしまうと、プレイヤー側に戻って来るのが非常に困難となるからです。
批評家は基本楽です。
他人の作ったものに難癖を付けていれば自分は何も証明しなくてもいいのですから。くたびれたオッサンがこういう誘惑に負けてしまうのも分からないでもない。
自分の創作が誰にも認められないというのはなかなか辛いものです。
嫌になるくらい読書を繰り返し、自己研鑽を継続して書き上げた作品が無下に選考で落とされるのですから、作者は自分が否定されたように感じるかもしれません。
もう一度言いますが、批評家は楽です。
自分のスキルを棚上げして、作品を評価していれば成立するのですから。音楽の分野であれば、楽器を弾ける必要なんぞありません。「今のコードはメタリカを彷彿とさせるね」とか、それっぽい事を言っていればいいのです(笑)。
ですが、彼らは決して尊敬されません。
それは、自分発のエンタメを提供出来ない存在だからです。
さて、創作家がこうなってしまう要因の一つに、死んだ勉強というものがあります。
死んだ勉強というのは、学んだ知識を活かせない事を指します。世の中には意味を成さない勉強が数多く存在するのです。
何かを勉強する時、あなたはどのような目的を持って教科書を開きますか?
作家志望なら良い作品を書くために勉強するのだと思います。ですが、一度自分に問いかけてみて下さい。あなたは本当に良い作品を書くために学んでいますか?
目的もなく、ただ漫然と学習をしていませんか?
スポーツには「練習のための練習」という言葉があります。練習そのものにはやる気は無いけど、練習をしたという実績を残す目的で行われる練習ですね。もう少しキツい言い方をすると自己満足であり気休めです。
当然の事ながら、「良い作品を書くぞ」というモチベーションと「上手くいくか分かんないけど、やらないよりマシだからやるか」という動機では、のちの結果に明白な違いが出てきます。
後者には目的が無いからです。当然の事、目的が死んでいる勉強は結果も既に死んでいます。
(ケンシロウ風)
このように、いい加減な勉強を繰り返していっても大概技術の向上は無く、そういった無駄なサイクルが繰り返されると実践者自身が嫌になってきます。
加えて執筆の世界には技術を装った嘘テクニックがたくさんあります。文字という抽象的な商品を扱う特質上、ジョーカーを見抜くのが難しいからです。
まあ、一見凄そうな技術はあります。蟻の巣みたいに張り巡らしたプロットやら、役割を決めて各キャラクターの性格を機械的に割り振る方法等、いかにも役立ちそうな技術もどきはたくさんあります。
ですが、いざ実践しようと試みたら開発者にしか使えない技術だったという事もままあります。そういう技術はさっさと捨ててしまわないといけません。
上記のような技術もどきの犠牲になり、疲れきってしまったアマチュア作家は、ある日見ている方が楽な事に気付きます。これが転落の始まりです。
これで三回目になりますが、見る方は楽なんです。書かないで通っぽい事だけを言っていればいいからです。
ですが、眼高手低という言葉があるように、書く能力と観察する能力はまるで別物なのです。もちろん作家を育成する能力もまったく別の能力です。
ここから彼の勘違いが始まります。なまじ本を読んでいるから中途半端にお目は高く、薄っぺらい読解力も三島並みの語彙を駆使すればごまかせます。もっと高尚な言い方をするなら韜晦出来ます。ほらね、ちょっと深淵な表現に見えたでしょう?(笑)
こうやってただの揚げ足取りもなんとなくそれっぽく見せる技術を伸ばしていくわけです。
自分が散々偽物の技術を掴まされているからさぞ得意げな顔で文字を書き連ねている事でしょう。
ですが、小説を書いていない人の筆力が上がるはずがありません。サッカーオタクが必ずしもサッカーが上手くないのと同じです。ただ見ているのは実践ではないのです。書いていない作家が巧くなるはずなどありません。
ですが、長くレビューを続ければ続けるほど、彼は自意識をこじらせていきます。自分は芸術に一家言あると思いがちです。何も成し遂げていないのに。
こうなると悲惨です。
次第に裏方のくせに存在感を出したくなった彼は、他作家の作品を酷評して存在感を出していこうと試みます。オッサンの自己評価だと、彼は現実よりも遥かにすごい奴なのです!
このようにオッサンは自意識をこじらせ、どうしようもなく痛い存在になっていきます。
壮大な物語になりましたが、これはどこの芸術の世界でも起こっている現象なのです。
さて、これを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか?
答えはシンプルです。
常に書いて、プレイヤーという立場を保持する事です。
作家になれるのは書いている間だけなのです。
それに付随して前述の技術もどきはどうしましょうか?
これはプレイヤーを続けても近付いてきます。
そうなったらこうする事です。
その技術が実践と結びついているかを見る事。それだけです。
もしその技術が本物なら、すぐに実地で使えるはずですよね?
ある程度熟練の要素も絡んでくるでしょうが、それが本当に役立つなら現実に適用出来る技術のはずです。
もしそうでなければ、その技術はペテンか、そうでなければあなたの理解・技量が追いついていないだけのどちらかです。
いずれにしても、今使えない技術なら放っておきましょう。明らかに使わない技術を学んでも時間の無駄です。
文藝の世界には技術らしきものがたくさん転がっています。変なものを掴まされないよう気を付けましょう。
見分けるコツは技術が実践と結びついているかです。
見る側ではなく、プレイヤーで居続けましょう。それが作家なのです。それだけが作家なのです。
本日から「名無しの挽歌」が5日間に渡って無料キャンペーンです。
それは文字通り創作活動そのものから離れて、他者の作品を批評する側に回るという事です。公募に疲れ果てたオッサンがよく取る逃げ道ですね。
現役を続けたいなら、決してこのような試みをしてはいけません。
というのも、一度観客席に行ってしまうと、プレイヤー側に戻って来るのが非常に困難となるからです。
批評家は基本楽です。
他人の作ったものに難癖を付けていれば自分は何も証明しなくてもいいのですから。くたびれたオッサンがこういう誘惑に負けてしまうのも分からないでもない。
自分の創作が誰にも認められないというのはなかなか辛いものです。
嫌になるくらい読書を繰り返し、自己研鑽を継続して書き上げた作品が無下に選考で落とされるのですから、作者は自分が否定されたように感じるかもしれません。
もう一度言いますが、批評家は楽です。
自分のスキルを棚上げして、作品を評価していれば成立するのですから。音楽の分野であれば、楽器を弾ける必要なんぞありません。「今のコードはメタリカを彷彿とさせるね」とか、それっぽい事を言っていればいいのです(笑)。
ですが、彼らは決して尊敬されません。
それは、自分発のエンタメを提供出来ない存在だからです。
さて、創作家がこうなってしまう要因の一つに、死んだ勉強というものがあります。
死んだ勉強というのは、学んだ知識を活かせない事を指します。世の中には意味を成さない勉強が数多く存在するのです。
何かを勉強する時、あなたはどのような目的を持って教科書を開きますか?
作家志望なら良い作品を書くために勉強するのだと思います。ですが、一度自分に問いかけてみて下さい。あなたは本当に良い作品を書くために学んでいますか?
目的もなく、ただ漫然と学習をしていませんか?
スポーツには「練習のための練習」という言葉があります。練習そのものにはやる気は無いけど、練習をしたという実績を残す目的で行われる練習ですね。もう少しキツい言い方をすると自己満足であり気休めです。
当然の事ながら、「良い作品を書くぞ」というモチベーションと「上手くいくか分かんないけど、やらないよりマシだからやるか」という動機では、のちの結果に明白な違いが出てきます。
後者には目的が無いからです。当然の事、目的が死んでいる勉強は結果も既に死んでいます。
(ケンシロウ風)
このように、いい加減な勉強を繰り返していっても大概技術の向上は無く、そういった無駄なサイクルが繰り返されると実践者自身が嫌になってきます。
加えて執筆の世界には技術を装った嘘テクニックがたくさんあります。文字という抽象的な商品を扱う特質上、ジョーカーを見抜くのが難しいからです。
まあ、一見凄そうな技術はあります。蟻の巣みたいに張り巡らしたプロットやら、役割を決めて各キャラクターの性格を機械的に割り振る方法等、いかにも役立ちそうな技術もどきはたくさんあります。
ですが、いざ実践しようと試みたら開発者にしか使えない技術だったという事もままあります。そういう技術はさっさと捨ててしまわないといけません。
上記のような技術もどきの犠牲になり、疲れきってしまったアマチュア作家は、ある日見ている方が楽な事に気付きます。これが転落の始まりです。
これで三回目になりますが、見る方は楽なんです。書かないで通っぽい事だけを言っていればいいからです。
ですが、眼高手低という言葉があるように、書く能力と観察する能力はまるで別物なのです。もちろん作家を育成する能力もまったく別の能力です。
ここから彼の勘違いが始まります。なまじ本を読んでいるから中途半端にお目は高く、薄っぺらい読解力も三島並みの語彙を駆使すればごまかせます。もっと高尚な言い方をするなら韜晦出来ます。ほらね、ちょっと深淵な表現に見えたでしょう?(笑)
こうやってただの揚げ足取りもなんとなくそれっぽく見せる技術を伸ばしていくわけです。
自分が散々偽物の技術を掴まされているからさぞ得意げな顔で文字を書き連ねている事でしょう。
ですが、小説を書いていない人の筆力が上がるはずがありません。サッカーオタクが必ずしもサッカーが上手くないのと同じです。ただ見ているのは実践ではないのです。書いていない作家が巧くなるはずなどありません。
ですが、長くレビューを続ければ続けるほど、彼は自意識をこじらせていきます。自分は芸術に一家言あると思いがちです。何も成し遂げていないのに。
こうなると悲惨です。
次第に裏方のくせに存在感を出したくなった彼は、他作家の作品を酷評して存在感を出していこうと試みます。オッサンの自己評価だと、彼は現実よりも遥かにすごい奴なのです!
このようにオッサンは自意識をこじらせ、どうしようもなく痛い存在になっていきます。
壮大な物語になりましたが、これはどこの芸術の世界でも起こっている現象なのです。
さて、これを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか?
答えはシンプルです。
常に書いて、プレイヤーという立場を保持する事です。
作家になれるのは書いている間だけなのです。
それに付随して前述の技術もどきはどうしましょうか?
これはプレイヤーを続けても近付いてきます。
そうなったらこうする事です。
その技術が実践と結びついているかを見る事。それだけです。
もしその技術が本物なら、すぐに実地で使えるはずですよね?
ある程度熟練の要素も絡んでくるでしょうが、それが本当に役立つなら現実に適用出来る技術のはずです。
もしそうでなければ、その技術はペテンか、そうでなければあなたの理解・技量が追いついていないだけのどちらかです。
いずれにしても、今使えない技術なら放っておきましょう。明らかに使わない技術を学んでも時間の無駄です。
文藝の世界には技術らしきものがたくさん転がっています。変なものを掴まされないよう気を付けましょう。
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