痛み、ときどき、救い
- 2016/08/16
- 12:59
今さらだが、「嫌われ松子の一生」を読んだ。
映画とドラマの両方で観た事があるので、それなりに覚悟して読まないとダメだろうと思っていたが、いざ読みだすと止まらなかった。
こういう作品の恐ろしいところは、読む側に精神的耐性を要するストーリーを素晴らしきリーダビリティーと目まぐるしい展開で一気読みさせてしまう事だ。ゆえに読了した頃にはいくらか精神にガタがきている。
どうやら私は苦しみのたうち回る主人公に過剰なシンパシーを感じてしまうらしい。
やめておけばいいのに、一番危険な距離で作品を堪能せずにはいられない。
優れた一人称小説は、どれだけ一般人と似ても似つかぬ人生を描いても、気付けば読者は自伝のように読み、実際にそのように感じる傾向がある。
あとがきには松子は私で私は松子なのだという旨の表記があった。作家のヒエラルキーでは頂点と底辺程の違いがあるとはいえ、偉大な作家が自分と同じ試みに挑んでいた(?)のはちょっと嬉しかった。まあ、私は主人公の名前をあえて付けないというように、もっと露骨なやり口で同じ効果を狙ったわけだけど。
数奇な運命を読者の身近に位置付ける行為は決して簡単ではない。
どこにでもいそうな人間に共感させるのと、「あいつの気持ちを分かってあげられるのは俺だけだ」という自意識を読者にこじらせさせるのは意味合いがまるで違う。
後者は陳腐化した共感という領域を遥かに超えなければならない。さながら、魂の共鳴というように。
さて、痛みを書くとはどういう行為なのだろう?
時々立ち止まって考えてみる。
ライトノベルでよくあるような無敵のヒーロー(ある意味アメコミ的な)であれ、ボロボロになって這いずるクズであれ、それは誰かの衝動や痛みを受け止め、救いとなっているのかもしれない。
人生はしばしば痛い。結構な頻度で痛めつけられる。でも、痛みさえ救済されるなら、そこにはわずかながらにも希望が湧き出るものなのかもしれない。
生きるとは何だ?
自分の足で歩いていく事だ。
でも、たまに歩けない時もある。
そんな時は、傷を肯定してくれる人がいたっていいじゃないか。
自分の受けた痛みさえ、誰かを救えるなら。
痛みだって、時々は素敵じゃないか。
そう思わずにはいられないのだ。
映画とドラマの両方で観た事があるので、それなりに覚悟して読まないとダメだろうと思っていたが、いざ読みだすと止まらなかった。
こういう作品の恐ろしいところは、読む側に精神的耐性を要するストーリーを素晴らしきリーダビリティーと目まぐるしい展開で一気読みさせてしまう事だ。ゆえに読了した頃にはいくらか精神にガタがきている。
どうやら私は苦しみのたうち回る主人公に過剰なシンパシーを感じてしまうらしい。
やめておけばいいのに、一番危険な距離で作品を堪能せずにはいられない。
優れた一人称小説は、どれだけ一般人と似ても似つかぬ人生を描いても、気付けば読者は自伝のように読み、実際にそのように感じる傾向がある。
あとがきには松子は私で私は松子なのだという旨の表記があった。作家のヒエラルキーでは頂点と底辺程の違いがあるとはいえ、偉大な作家が自分と同じ試みに挑んでいた(?)のはちょっと嬉しかった。まあ、私は主人公の名前をあえて付けないというように、もっと露骨なやり口で同じ効果を狙ったわけだけど。
数奇な運命を読者の身近に位置付ける行為は決して簡単ではない。
どこにでもいそうな人間に共感させるのと、「あいつの気持ちを分かってあげられるのは俺だけだ」という自意識を読者にこじらせさせるのは意味合いがまるで違う。
後者は陳腐化した共感という領域を遥かに超えなければならない。さながら、魂の共鳴というように。
さて、痛みを書くとはどういう行為なのだろう?
時々立ち止まって考えてみる。
ライトノベルでよくあるような無敵のヒーロー(ある意味アメコミ的な)であれ、ボロボロになって這いずるクズであれ、それは誰かの衝動や痛みを受け止め、救いとなっているのかもしれない。
人生はしばしば痛い。結構な頻度で痛めつけられる。でも、痛みさえ救済されるなら、そこにはわずかながらにも希望が湧き出るものなのかもしれない。
生きるとは何だ?
自分の足で歩いていく事だ。
でも、たまに歩けない時もある。
そんな時は、傷を肯定してくれる人がいたっていいじゃないか。
自分の受けた痛みさえ、誰かを救えるなら。
痛みだって、時々は素敵じゃないか。
そう思わずにはいられないのだ。
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