挫折と共鳴
- 2016/06/19
- 00:50
王木亡一朗氏の「Our Numbered Days」を読了した。
いつも通りだとあらすじから書いていく流れになるけど、あまりいい書き方が思いつかない。切ない曲が聴きたいところだな。これでもどうだ?
この作品では元バンドマンの益一朗(ますいちろう)という30歳の男が出てくる。
KDPの読者や作家ではアラサーの人が多いから、共感しやすいのかもしれない。
前述の通り今作では良いあらすじが書けそうにない。無理して書くと陳腐な作品と思われそうで、それは心外だ。というわけで、今回は感想に特化して書いていく。
ところで、この記事はレビューにはならないかもしれない。というのも、この作品を読んでいると、作品を超える要素を考える事が多かったからだ。
いきなり拙著の話になるが、「名無しの挽歌」ではどうしようもない負け犬を描いた。
「負け犬でもいいじゃん」とか、「雨が降らないと虹は架からない」とか、そんな意味合いを込めてえげつない話を書いていった。夢を追った人間で一番なりたくない姿に読者を直面させるから、書いている方も読んでいる方も精神を削られる傾向にあった。ちなみに王木氏も胃が痛くなったそうだ。
話を「Our Numbered Days」の方に戻すけど、主人公の益一朗はおそらく王木氏本人に似ているのだろうと思う。音楽を事故で諦めざるを得なかったという過去は創作かもしれないけど、彼の綴った文章からも夢破れた者しか発せない波長を感じた。
どこかで書いたと思うけど、音楽であれ、その他創作的な活動であれ、ほんのちょっとした要素でキャリアに雲泥の差が出来てしまう事はたしかにある。それは往々にして運と呼ばれる要素であるのだけど、だからこそ「運も実力の内」と言われる部分がある。
本作を読んでいると、私(一人称に迷う)の書いていない要素があった。
それは幸せな家庭というものであったり、その中で懊悩する主人公の密かなもの悲しさだったり、そんな要素だ。
思えば、そういうものは書いた事が無かった。自分のキャリアを振り返ると、どうしようもないクズばかりが溢れていて、幸せそうな男女が手を繋いでいるような作品があまりに少ない。女もサゲマンばかりだ。どうにかしてほしい。これがリア充と辛酸ばかり舐めてきた人間の差か。
それはそれとして、リア充と呼ばれるような人でもそれなりに傷は持っていて、そこは普通の人間というか、負け犬と呼ばれる人種と大差ない事が分かる。
多くの人間がかつての自分と折り合いをつけながら生きていかざるを得ないわけで、そこにリア充特別枠というものは存在しない。綺麗な奥さんを手に入れても、それは夢に代わりになる事は出来ない。ちなみに私は夢の代わりに出来そうな女性すら手に入れていない。……何を言わせる気だ。
無駄口はいい。
益一朗は不運な事故でミュージシャンのキャリアにピリオドを打たないといけなかったのだけど、じゃあそのままバンドマンとしてのキャリアを続けていたら幸せになれたのか、という問題もある。最近は音楽だけで食えている人がずいぶんと少なくなっている。
どうしようもないアイドル商法に嫌気が差していたら、今度はメタル界をアイドルが救うなんていう冗談みたいな話まで出てきている。(今ドームでコンサートが出来るアーティストなんてどれだけいる?)
益一朗がメジャーデビューしてもボロボロになって終わったんじゃないかとか、そんな可能性も考えてしまうのだ。このザマで生きていると。
そう考えると不慮の事故でキャリアが終わるっていうのは、ある意味ロックスター的に美しい終わり方だと思うのだけど、当然の如くご本人はそんな終わり方で納得出来るはずがない。
結果として自分自身をなじるもう一人の自分を魂の中に飼う事となる。あの声の存在は私も知っているし、時々彼と話す事もある。というか、おおよその挫折組は会話した事ぐらいあるだろう。カマトトぶるなよ。
また話が逸れた。いい加減にしてくれ。私は早く寝たいのだ。
どこの世界でも自分のキャリアに100%満足している人間なんぞ砂粒ほども存在しない。誰しもが大小の挫折を味わい、人生という苛烈なゲームに必死こいて参加している。時々、脱落者も出る。
話を戻すと、負け犬の極致である「名無しの挽歌」とリア充でも幸福感の中でそれなりに傷付いている「Our Numbered Days」の両者間に描かれる「痛み」の存在は大して変わらない。それは人間の持つ魂の叫びなのだ。
夢は、時々痛い。いや、訂正だ。夢は、しょっちゅう痛い。
追い駆ければ、夢は必ず痛みを伴う。
だから人は峻厳たる山の如き苦難を乗り越えた人間に計り知れない幻想と羨望を感じてしまうのかもしれない。いつか頂に登りつめるであろう自分を投影しながら。
さて、私は目下転がり落ちている最中だ。周りからすれば目も当てられない存在かもしれない。
でも、別にいいじゃないかという開き直りも出てくるのだ。
夢は痛い。しょっちゅう怪我をする。時々立ち上がれないんじゃないかというほど。
だけど、俺は痛みから逃げてなかったぞと、血だらけの顔で言うのもまた一興ではないかと。
強がりかもしれない。今にもぶっ倒れそうなのに何とか我慢しているだけなのかもしれない。
それが正解とは言わないし、どちらかと言えば間違いなのだろう。
それでも自分が何か生きた証を残そうと爪を立てる行為には意味がある。
幸せになれるはずだったのにあっち側に行ってしまった人間もいる。
それを思うと、痛みを感じられている分、彼らにとっては私のような負け犬も羨ましい存在なのだろう。
時々、そんな事を思うんだ。
……分かるだろう?
(しれっと宣伝。併せて読みたい。成功したバンドマンの話)
いつも通りだとあらすじから書いていく流れになるけど、あまりいい書き方が思いつかない。切ない曲が聴きたいところだな。これでもどうだ?
この作品では元バンドマンの益一朗(ますいちろう)という30歳の男が出てくる。
KDPの読者や作家ではアラサーの人が多いから、共感しやすいのかもしれない。
前述の通り今作では良いあらすじが書けそうにない。無理して書くと陳腐な作品と思われそうで、それは心外だ。というわけで、今回は感想に特化して書いていく。
ところで、この記事はレビューにはならないかもしれない。というのも、この作品を読んでいると、作品を超える要素を考える事が多かったからだ。
いきなり拙著の話になるが、「名無しの挽歌」ではどうしようもない負け犬を描いた。
「負け犬でもいいじゃん」とか、「雨が降らないと虹は架からない」とか、そんな意味合いを込めてえげつない話を書いていった。夢を追った人間で一番なりたくない姿に読者を直面させるから、書いている方も読んでいる方も精神を削られる傾向にあった。ちなみに王木氏も胃が痛くなったそうだ。
話を「Our Numbered Days」の方に戻すけど、主人公の益一朗はおそらく王木氏本人に似ているのだろうと思う。音楽を事故で諦めざるを得なかったという過去は創作かもしれないけど、彼の綴った文章からも夢破れた者しか発せない波長を感じた。
どこかで書いたと思うけど、音楽であれ、その他創作的な活動であれ、ほんのちょっとした要素でキャリアに雲泥の差が出来てしまう事はたしかにある。それは往々にして運と呼ばれる要素であるのだけど、だからこそ「運も実力の内」と言われる部分がある。
本作を読んでいると、私(一人称に迷う)の書いていない要素があった。
それは幸せな家庭というものであったり、その中で懊悩する主人公の密かなもの悲しさだったり、そんな要素だ。
思えば、そういうものは書いた事が無かった。自分のキャリアを振り返ると、どうしようもないクズばかりが溢れていて、幸せそうな男女が手を繋いでいるような作品があまりに少ない。女もサゲマンばかりだ。どうにかしてほしい。これがリア充と辛酸ばかり舐めてきた人間の差か。
それはそれとして、リア充と呼ばれるような人でもそれなりに傷は持っていて、そこは普通の人間というか、負け犬と呼ばれる人種と大差ない事が分かる。
多くの人間がかつての自分と折り合いをつけながら生きていかざるを得ないわけで、そこにリア充特別枠というものは存在しない。綺麗な奥さんを手に入れても、それは夢に代わりになる事は出来ない。ちなみに私は夢の代わりに出来そうな女性すら手に入れていない。……何を言わせる気だ。
無駄口はいい。
益一朗は不運な事故でミュージシャンのキャリアにピリオドを打たないといけなかったのだけど、じゃあそのままバンドマンとしてのキャリアを続けていたら幸せになれたのか、という問題もある。最近は音楽だけで食えている人がずいぶんと少なくなっている。
どうしようもないアイドル商法に嫌気が差していたら、今度はメタル界をアイドルが救うなんていう冗談みたいな話まで出てきている。(今ドームでコンサートが出来るアーティストなんてどれだけいる?)
益一朗がメジャーデビューしてもボロボロになって終わったんじゃないかとか、そんな可能性も考えてしまうのだ。このザマで生きていると。
そう考えると不慮の事故でキャリアが終わるっていうのは、ある意味ロックスター的に美しい終わり方だと思うのだけど、当然の如くご本人はそんな終わり方で納得出来るはずがない。
結果として自分自身をなじるもう一人の自分を魂の中に飼う事となる。あの声の存在は私も知っているし、時々彼と話す事もある。というか、おおよその挫折組は会話した事ぐらいあるだろう。カマトトぶるなよ。
また話が逸れた。いい加減にしてくれ。私は早く寝たいのだ。
どこの世界でも自分のキャリアに100%満足している人間なんぞ砂粒ほども存在しない。誰しもが大小の挫折を味わい、人生という苛烈なゲームに必死こいて参加している。時々、脱落者も出る。
話を戻すと、負け犬の極致である「名無しの挽歌」とリア充でも幸福感の中でそれなりに傷付いている「Our Numbered Days」の両者間に描かれる「痛み」の存在は大して変わらない。それは人間の持つ魂の叫びなのだ。
夢は、時々痛い。いや、訂正だ。夢は、しょっちゅう痛い。
追い駆ければ、夢は必ず痛みを伴う。
だから人は峻厳たる山の如き苦難を乗り越えた人間に計り知れない幻想と羨望を感じてしまうのかもしれない。いつか頂に登りつめるであろう自分を投影しながら。
さて、私は目下転がり落ちている最中だ。周りからすれば目も当てられない存在かもしれない。
でも、別にいいじゃないかという開き直りも出てくるのだ。
夢は痛い。しょっちゅう怪我をする。時々立ち上がれないんじゃないかというほど。
だけど、俺は痛みから逃げてなかったぞと、血だらけの顔で言うのもまた一興ではないかと。
強がりかもしれない。今にもぶっ倒れそうなのに何とか我慢しているだけなのかもしれない。
それが正解とは言わないし、どちらかと言えば間違いなのだろう。
それでも自分が何か生きた証を残そうと爪を立てる行為には意味がある。
幸せになれるはずだったのにあっち側に行ってしまった人間もいる。
それを思うと、痛みを感じられている分、彼らにとっては私のような負け犬も羨ましい存在なのだろう。
時々、そんな事を思うんだ。
……分かるだろう?
(しれっと宣伝。併せて読みたい。成功したバンドマンの話)
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