ゲロギアス
- 2016/04/24
- 21:41
それはホカホカと、テーブルの上で湯気を立てていた。
「飲めるよね? 愛があれば」
目の前の彼女は、借金取りの険しさと債務者の哀願が同居したような目で僕を見つめる。
「いや、おかしいだろ……」
僕は至極当然のリアクションをする。だが、彼女は譲らない。
「愛があれば、飲めるはずでしょ?」
「出来ません、僕には」
「なんで? あなたの愛ってそんなものなの?」
「君は愛を履き違えている……」
「どうして? 愛があれば何でも乗り越えられるはずでしょ?」
「……これは愛で乗り越えないといけないものなのか?」
おかしい。この女は確実におかしい。
思えば、妙に虫のいい話だった。モテない僕がこんなに美人でスタイルのいい女と付き合えるということに、もっと疑問を持つべきだったのだ。
「大丈夫、わたしはいつも、傍にいるよ」
そんなにふんわりと微笑まれても無理なものは無理だ。
「一つ、教えてくれ」
「なあに?」
「愛は何でも乗り越えられる。この言葉がいつも正しいわけじゃない。それでも、なんとか君の要望に沿っていけるよう努力はしていきたい」
「ええ」
「でも、これは愛がどうとか、そういう問題とも違うと思うんだ」
「どうして? 母親になった友達は赤ちゃんの唇についたベビーフードを食べたりしているよ?」
「だから……!」思わず声が荒くなる。
「どうして君のことを愛しているからと言って、君のゲロを飲まないといけないんだ!」
――テーブルの上に置かれたコップからは、なおもホカホカと生暖かい湯気が立っている。
この女はおかしい。
僕の彼女は、愛にかこつけてゲロを飲ませようとしてきた。意味が分からない。
嫉妬深い彼女は僕がちょっと女友達と楽しそうに会話をするだけで、その友人達を排除しようとする悪癖があった。お陰で僕の彼女を恐れた女友達は軒並み離れていくようになった。
それだけならまだいい。いや、全然良くないんだけど。
独占欲の強い彼女は、僕の愛情に疑問を持つたびに、儀式的な行為を強要するようになった。愛を確かめるという目的で行われる、カルト教団でもやらないようなイカレ儀式だ。
彼女の信条によると、「愛があればすべてを乗り越えられる」そうだ。絶対そんなことは無いと思うのだけれど、それを言うとまたヒステリーを起こすから僕は黙っていた。
だが、それは僕をジリジリと泥沼へと追い込む序曲になったのだ。彼女はコップ一杯に吐瀉物を注ぎ込むと、それを僕に飲めと言い出した。愛を証明するためだそうだ。
この際はっきり言おう。彼女は狂っている。なんで人を愛していたら恋人のゲロを飲むことが出来るのか? あの整った顔の内側にはどんな数式が成り立っているのか。意味が分からない。
「出来るよね?」
「無理です」
「どうして? わたしを愛してないの?」
「いや、愛とか関係ないですやん」
東京生まれの東京育ちなのに思わず関西弁が出てしまう。目の前へと迫る危機に、いかに余裕が無いか。僕の心情をよく表している。
自分のゲロを飲んでもらえないと知った彼女はポロポロと涙を流した。その顔はかわいい。かわいいけど、何かが決定的に間違っている。
「飲んでくれないんだ……?」
「別に泣かなくても……」
「ゴメンね」
指で涙を拭いながら、彼女は気丈に答える。
「たしかに、愛があれば何でも出来るっていうのは甘いよね。そうだよね……」
彼女はテーブルの上に鎮座するおぞましいコップを脇にどけた。
「なんていうか、あなたが他の人の所に行ってしまうみたいで」
今、それを本気で考えていたけどな。とは言わない。
「そうだよね。愛しているからわたしのゲロを飲んでなんて、頭がおかしいよね」
頭がおかしいのは間違いないが、なんとか悪魔の飲み物を呷らないでよくなったみたいだ。僕はほっと胸を撫で下ろす。
「ゴメンね」
「いや、いいんだ(棒読み)」
「ほら、わたしって昔の彼氏に裏切られたりしてきたじゃん」
「知らねえよ」と言いたいところだが、僕はこれ以上話を引き伸ばしたくない。君が元カレに裏切られたなんて本邦初公開と思うのだが。
「それでね、ちょっとしたことで疑心暗鬼になっちゃうんだよね」
「ああ」
とりあえず元カレは見つけたらシバいとこう。
「だから、時々試したくなっちゃうの。その、今の相手がどれくらいわたしを愛してくれているのかを」
試し方は確実に間違っているけどな。千年の恋もそのテストで冷めるだろう。というか、僕は早く君との関わりを断ちたいと思っている。言わないけど。
「だからゴメン、時々暴走しちゃうんだ」
「僕は君を裏切ったりしない。だから、これからはくれぐれも暴走はしないで欲しい」
心からの一言だった。別れ話は頃合を見てしよう。
「良かった」
彼女は笑顔を取り戻す。
「これからもわたしを好きでいてくれる?」
「もちろん(棒読み)」
「焼いたのは食べてもらってたから、すぐに生でもいけるだろうと思ったのは間違いだったよね」
「……? どういうこと?」
――悪寒。
「ああ、ゴメン意味分からなかったよね」
彼女は天使みたいな笑顔で笑う。背筋にはひたすら死神の予感。
「昨日のお好み焼きは(以下自重)」
どうしてだろう?
あの瞬間から記憶が無い。
だけど、僕はたしかに大切な何かを失った気がするのだ。
それが愛だったのか、今でも自問自答し続けている。
〔了〕
「飲めるよね? 愛があれば」
目の前の彼女は、借金取りの険しさと債務者の哀願が同居したような目で僕を見つめる。
「いや、おかしいだろ……」
僕は至極当然のリアクションをする。だが、彼女は譲らない。
「愛があれば、飲めるはずでしょ?」
「出来ません、僕には」
「なんで? あなたの愛ってそんなものなの?」
「君は愛を履き違えている……」
「どうして? 愛があれば何でも乗り越えられるはずでしょ?」
「……これは愛で乗り越えないといけないものなのか?」
おかしい。この女は確実におかしい。
思えば、妙に虫のいい話だった。モテない僕がこんなに美人でスタイルのいい女と付き合えるということに、もっと疑問を持つべきだったのだ。
「大丈夫、わたしはいつも、傍にいるよ」
そんなにふんわりと微笑まれても無理なものは無理だ。
「一つ、教えてくれ」
「なあに?」
「愛は何でも乗り越えられる。この言葉がいつも正しいわけじゃない。それでも、なんとか君の要望に沿っていけるよう努力はしていきたい」
「ええ」
「でも、これは愛がどうとか、そういう問題とも違うと思うんだ」
「どうして? 母親になった友達は赤ちゃんの唇についたベビーフードを食べたりしているよ?」
「だから……!」思わず声が荒くなる。
「どうして君のことを愛しているからと言って、君のゲロを飲まないといけないんだ!」
――テーブルの上に置かれたコップからは、なおもホカホカと生暖かい湯気が立っている。
この女はおかしい。
僕の彼女は、愛にかこつけてゲロを飲ませようとしてきた。意味が分からない。
嫉妬深い彼女は僕がちょっと女友達と楽しそうに会話をするだけで、その友人達を排除しようとする悪癖があった。お陰で僕の彼女を恐れた女友達は軒並み離れていくようになった。
それだけならまだいい。いや、全然良くないんだけど。
独占欲の強い彼女は、僕の愛情に疑問を持つたびに、儀式的な行為を強要するようになった。愛を確かめるという目的で行われる、カルト教団でもやらないようなイカレ儀式だ。
彼女の信条によると、「愛があればすべてを乗り越えられる」そうだ。絶対そんなことは無いと思うのだけれど、それを言うとまたヒステリーを起こすから僕は黙っていた。
だが、それは僕をジリジリと泥沼へと追い込む序曲になったのだ。彼女はコップ一杯に吐瀉物を注ぎ込むと、それを僕に飲めと言い出した。愛を証明するためだそうだ。
この際はっきり言おう。彼女は狂っている。なんで人を愛していたら恋人のゲロを飲むことが出来るのか? あの整った顔の内側にはどんな数式が成り立っているのか。意味が分からない。
「出来るよね?」
「無理です」
「どうして? わたしを愛してないの?」
「いや、愛とか関係ないですやん」
東京生まれの東京育ちなのに思わず関西弁が出てしまう。目の前へと迫る危機に、いかに余裕が無いか。僕の心情をよく表している。
自分のゲロを飲んでもらえないと知った彼女はポロポロと涙を流した。その顔はかわいい。かわいいけど、何かが決定的に間違っている。
「飲んでくれないんだ……?」
「別に泣かなくても……」
「ゴメンね」
指で涙を拭いながら、彼女は気丈に答える。
「たしかに、愛があれば何でも出来るっていうのは甘いよね。そうだよね……」
彼女はテーブルの上に鎮座するおぞましいコップを脇にどけた。
「なんていうか、あなたが他の人の所に行ってしまうみたいで」
今、それを本気で考えていたけどな。とは言わない。
「そうだよね。愛しているからわたしのゲロを飲んでなんて、頭がおかしいよね」
頭がおかしいのは間違いないが、なんとか悪魔の飲み物を呷らないでよくなったみたいだ。僕はほっと胸を撫で下ろす。
「ゴメンね」
「いや、いいんだ(棒読み)」
「ほら、わたしって昔の彼氏に裏切られたりしてきたじゃん」
「知らねえよ」と言いたいところだが、僕はこれ以上話を引き伸ばしたくない。君が元カレに裏切られたなんて本邦初公開と思うのだが。
「それでね、ちょっとしたことで疑心暗鬼になっちゃうんだよね」
「ああ」
とりあえず元カレは見つけたらシバいとこう。
「だから、時々試したくなっちゃうの。その、今の相手がどれくらいわたしを愛してくれているのかを」
試し方は確実に間違っているけどな。千年の恋もそのテストで冷めるだろう。というか、僕は早く君との関わりを断ちたいと思っている。言わないけど。
「だからゴメン、時々暴走しちゃうんだ」
「僕は君を裏切ったりしない。だから、これからはくれぐれも暴走はしないで欲しい」
心からの一言だった。別れ話は頃合を見てしよう。
「良かった」
彼女は笑顔を取り戻す。
「これからもわたしを好きでいてくれる?」
「もちろん(棒読み)」
「焼いたのは食べてもらってたから、すぐに生でもいけるだろうと思ったのは間違いだったよね」
「……? どういうこと?」
――悪寒。
「ああ、ゴメン意味分からなかったよね」
彼女は天使みたいな笑顔で笑う。背筋にはひたすら死神の予感。
「昨日のお好み焼きは(以下自重)」
どうしてだろう?
あの瞬間から記憶が無い。
だけど、僕はたしかに大切な何かを失った気がするのだ。
それが愛だったのか、今でも自問自答し続けている。
〔了〕
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