部屋と悪魔ドラとあたし
- 2016/02/28
- 23:14
「ねえ、あたしのために本をつくってくれない?
あなたにしか作れない特別な本」
君は笑い、少しだけ哀しそうな顔をした。
人生とは無慈悲だ。
俺の気分を象徴するように降り注ぐ驟雨。傘を持っていても意味を成さない。
でも、俺は構わなかった。いっそこの雨がすべてを洗い流してくれたらと思っていた。
この日、婚約者に捨てられた。理由は「好きな人ができたから」という、単純明快かつこれ以上ない理由。冷厳なる現実というものをふいに突きつけられた俺は、その威力に耐えることができなかった。
さっさと見切りをつけたらまだ格好がついただろうに、無意味に「なぜだ?」と食い下がっては醜態をさらした。他の男を好きになる理由なんて腐るほどあるはずなのに。
なまじ出会いがドラマチックだったのが良くなかったのかもしれない。元彼がストーカーと化していた彼女は、その男の影に怯えていた。そいつをブチのめした俺が惚れられたというわけだが、今思えばあのストーカーは俺の未来形ではなかったか。
このまま諦めずに彼女を追い続ければ、新しい恋人とやらにブチのめされる運命が待っているのだろう。ニーチェの永遠回帰がいくらか理解できた気がする。
失意を紛らわすためにヤケ酒をした。お陰で足元はおぼつかない。このまま倒れて死んでしまえたらどれだけ楽だろう。そう思っていたところに大雨が降ってきた。空は、優しい。
通行人が頭を抱えながら走って行く。傘を差していても、雨粒は容赦なく傘の内側まで抉っていく。ざまあみろ。
水びたしの歩道へ乱暴に唾を吐くと、小学生ぐらいの少女が傘も差さずにコンビニの壁にもたれていた。もちろん、ずぶ濡れだ。熱でも出しているのか、その息は荒く、放っておいたら死んでしまいそうな気がした。
無言でその子の前に立った。気付いてはいるのだろうが、俺を見上げようともしない。完全に自分の世界に閉じこもっている。少女はロシア人の血でも入っているのだろうか、綺麗な赤毛の持ち主だった。瞳はライトグリーンで、顔立ちだけは日本人ぽかった。ロリコンだったら大喜びしそうなツインテール。
「大丈夫かい?」
女の子は無様な姿を曝す男に「お前が大丈夫なのかよ?」と返すこともなく、無言で震えていた。日本語が通じないのか。いや、単に怯えていたのかもしれない。
「ママは?」
「……」
少女は謎の黙秘を貫く。俺は対応に困る。気付けば酔いはすっかり覚めていた。
ずぶ濡れの少女は涙目だった。その理由が雨に濡れて寒いからなのか、それとも迷子になったからなのかは分からない。だが、このまま一人にしておいたらロリコンに拉致される可能性がなくもない。
いまだになぜそうしようと思ったのかは知らないが、俺は彼女の手を取ると、そのまま自宅へと連れて帰った。俺自身に誘拐犯やら未成年略取の疑いがかかる可能性を鑑みたら軽率すぎたのだが。
まあ、正直自分が逮捕されようが殺されようがどうでも良かった。愛した女には結婚をふいにされ、「あなたといるのは辛かった」だの「あなたは結局自分自身にしか関心が無かった」だの人格と思い出を全否定されて家を追い出された。彼女にすべてを捧げようとしていた俺にとって、これ以上悪いことなんてあるのかと、そんな気分だった。それに比べたら逮捕なんぞ屁でもなかったのだろう。
だが、この場合は警察を呼ぶのが正しいのだろうか? 救急車を呼ぶのが普通なのだろうか?
大事に至ってないから、どっちにしても怒られそうな気がした。それなら交番に連れて行くか? この雨の中で? 冗談じゃない。理由なんてそんなもんだ。考えてみたら自宅に連れて行く選択肢が一番面倒なのにな。アルコールで頭がおかしくなっていたのだろう。
女の子を自宅に連れ込むと、いや、その表現は語弊があるな。女の子を自宅に入れると、彼女に一人でシャワーを浴びせ、サイズのまったく合わない服を着せてやった。そりゃそうだろう。俺、幼女じゃないし。
着替えが終わるとカップラーメンを作って食わせた。案外空腹が満たされると精神面も持ち直すものだ。はたして少女の機嫌は直り、一言だけ「ありがとう」と言った。なんだ、日本語喋れるじゃねえか。
体も温まったせいか、それとも空腹が満たされたせいなのか、少女は閉ざしていた口を開きだした。
少女は単に親と喧嘩をして衝動的に家出をしただけだった。だが、運悪く土砂降りの雨に遭ってしまい。どうしようかと途方に暮れていたら俺に発見されたのだそうだ。
事情が分かれば話は早い。俺は少女の親に連絡を取り、家まで彼女を引き取りに来てもらった。十分そこらでロシア系の女が来た。年を重ねているせいもあるけど、シャラポワみたいに魅力的なロシア女ではない。日本料理にハマってすっかり太ってしまったロシア人のおばちゃんという感じだった。もちろん、口には出さないけど。
少女は俺に礼を言って帰った。「またカップラーメンが食べたい」とか言うから、「コンビニでいくらでも買えるよ」と返した。そうしたら彼女も「あたし、ターニャ。これからもよろしく」と返す。あんまり人の話を聞く子じゃないらしい。
ターニャの母親は俺の気まぐれにいたく感動したそうで、それからしょっちゅう食事の面倒を見てもらえるようになった。俺もタダ飯が食えるという理由でターニャの家に通うことになったのだが、いつの間にか俺は彼女達の家族みたいになっていた。
ターニャの母親はウクライナ人で、日本人の夫との間にターニャを授かることになったが、ロシア人パブに入り浸っていた夫は妻以外のロシア女と浮気を繰り返しては暴力を振るい、挙句は「出かけてくる」と言ってそのまま帰って来なかったのだそうだ。
母親は自らが唾棄していたロシア人パブで働くことになり、なんとか生計を立てているのだという。こんなワケ有りの家族と出会うあたりがいかにも俺らしい。
だが、彼女達と過ごす時間は楽しかった。ターニャの母親にはまるで性的な魅力を感じなかったけど、家族のように接してくれる親子は温かかった。
婚約者に捨てられてからというもののすっかり女という生き物に嫌気が差していた俺は、次の恋人を作ることもなく、知らぬ間にターニャの家庭教師役になっていた。無償でやっていたから、ターニャの家計にとってもかなり助けにはなったのだろう。その頃からターニャには「先生」と呼ばれるようになっていた。
ターニャの母親には何度か「結婚してほしい」と言われたが、そのたび丁重に断った。そういうのとは、また違うのだ。
光陰矢の如しと言うように、小学生だったターニャはあっという間に高校生となっていた。その美貌は近所でも噂になるほどのものだった。俺はと言えば白髪は増えるし腹回りに付きだした脂肪がなかなか落ちなくて、うっかり玉手箱を半分ぐらい開けてしまったような気分になっていた。ただ、この頃になると俺も無趣味というわけではなかった。
ターニャの家庭教師を始めたあたりから、俺は小説を書くようになっていた。最初は「家庭教師をやるからには恥ずかしくない程度の教養を身に付けないといけない」と本を読みだしたのがきっかけだった。何冊も小説を読んでいる内に、何を血迷ったのか「俺でも小説を書けるかもしれない」なんて思ってしまったのだ。
それからというものの、細々と小説は書いていた。最初はただの暇つぶしだったのに、気付けば「どうやったら読者を楽しませることができるか」とか「どうやったら新しい表現ができるか」とか、そんなことを考えだした。
読者はいつもターニャ一人だった。だから、性描写や暴力描写は極力避けた。そりゃそうだろう。
読み返すと稚拙極まりない小説ばかりだったが、ターニャはいつも俺の小説を楽しみにしていてくれた。たった一人の読者しかいない小説。それでも、俺には書く意味があったのだ。いつの日からかターニャが他の人にも読んでもらいたい」なんて言い出したが、そんなつもりはないから断った。こんな素人が書いた小説を人様に見せるものじゃない。そんな態度を取りながらも、ターニャ一人だけに向けた小説という形で俺は作品を書き続けた。
そんなある日、不吉な知らせは前触れも無くやってきた。
仕事から帰ると、家に置き忘れた携帯電話に何件も着信履歴が入っていた。着信元はターニャの母親だった。ただならぬものを感じて折り返すと、興奮気味の母親に繋がった。自分が慌てまくっているくせに、「落ち着いて聞いてほしい」とか言いだす。
だが、次の瞬間に俺は絶望の淵に立たされた。
――ターニャが倒れた。病名は伏せるが、もう手遅れだった。学校で倒れた彼女は救急車で運ばれて、緊急手術を経たのち病臥に伏している。
俺を取り囲む世界が一気にぶっ壊された気がした。
なんでこんな目に遭わないといけないのだ? 今回もそうだ。俺は何一つ悪いことなどやっていないのに、運命とやらが遊び半分で俺を切り刻む。今、目の前に神がいるのなら、何の躊躇も無くその顔を殴ってやるところだろう。
不幸中の幸いか、何日か経ってターニャは意識を取り戻した。末期症状に間違いはないのだけれど、会話をすることはできる。だから俺は彼女に会いに行った。
絶世の美少女であった彼女からはすっかり生気というものが抜け落ちていた。頬はこけて、手足は枝のように細くなっている。俺が知っているターニャと同じ人物とはとても思えなかった。
ターニャの乗った車椅子を押して、病院の屋上まで行った。二人でずっと、夕日が沈みゆくのを眺めていた。
俺は怖くなった。ターニャを失ったら、自分がどうなってしまうのか想像もつかなかった。どうして俺みたいなゴミが生き残って、天使のようなターニャがその人生に幕を閉じようとしているのか、理解ができなかった。
「最近、先生の小説を読んでないね」
ふいにターニャが語りだした。いい言葉が見つからず、俺はただ「ああ」と返す。
「書いてるの? 小説」
「最近は書いていない。唯一の読者が病床に伏しているからな」
言われて初めて気付いたが、ターニャが倒れてからは小説を書くという行為すら完全に頭から抜け落ちていた。
「そっか。それじゃ書かなくなったのはあたしのせいか」
「そんなことない。俺が無能なだけだ」
夕日に照らされた屋上には沈黙が流れる。空をつがいになったカラスが飛んでいく。その様子を二人でしばらく眺めていた。
「あたし、死ぬのかな?」
「そんなことない」
脊椎反射的に答えた。ムキになって言い返すなんて何年ぶりだろう。
「君は生きていける。まだやりたいことがたくさんあるだろう?」
「そうだね」
ターニャは残照に照らされる雲を眺めながら言った。その顔は、すべてを悟りきった表情だった。
「ねえ、先生」
「なんだ?」
「あたしは生きる」
「当たり前だ」
「でもね、ちょっとヤバいかもっていう気持ちもある。だから、あたしが病気を克服したらご褒美に一個だけ願いを叶えてもらえないかな?」
「いいよ。何をすればいい?」
「ねえ、あたしのために本をつくってくれない?
あなたにしか作れない特別な本」
彼女は笑い、少しだけ哀しそうな顔をした。
「……いいよ。でも小説を書くには時間がかかる。だから、元気になってくれないと読めないぞ」
「いいよ。あたし、絶対に治すから」
「……わかった」
「なに泣いてるの?」
ターニャはクスクスと笑う。知らぬ間に視界が滲み、景色は印象派になっていた。
年を食うと無意味に涙もろくなる。昔の俺なら、こんな弱い人間は唾棄するだけだったはずなのに。
結論から言うと、ターニャに新作を読ませることはできなかった。小説が完成する前に、ターニャがこの世を去ったからだ。俺の胸には、未完の物語と永遠に埋まることの無い穴だけが残った。それがターニャの成長を見守ってきた俺が成した最終生産物だった。無能な俺に相応しい結果だ。
人間、あまりにもつらいことがあると、悲しみという概念すら消え去ってしまうものらしい。俺の中にあるのはただ無気力、無気力だけだった。
ターニャの葬式で母親に言われた。「あなたに愛されて、彼女も幸せだった」と。
本当にそうだろうか?
俺みたいなゴミに愛されて、幸せな人間なんているのだろうか?
俺はその実、関わった人間すべてを不幸に押しやってしまうだけの死神なのではないか? そんな疑念がこの胸に渦巻いて消えなかった。
鬱々としていた毎日を送り、酒に溺れた。何もしてあげられなかった。助けてあげることもできなかった。どれだけアルコールに浸っても罪悪感が消えてくれることはなかった。
そんなある日、ターニャの遺品である課題ノートから、URLだけが書かれた紙切れが出てきた。いい趣味ではないとは思いながらも、そのページにアクセスしてみると、それはターニャがやっていたと思しきブログ記事だった。ブログ運営時は「火属性の女の子」と揶揄されていたみたいで、若さゆえの失言でよく炎上しているようだった。本人は戸惑っているようだったが、俺からすれば微笑ましい光景だった。
俺は思いがけず見つけた宝物を何時間も眺めていた。ここにはターニャの残した体温がたしかにあったのだ。
ページをめくっていった俺は、ふいに目頭が熱くなった。ターニャのブログでは、俺の本を読んだ感想が何千文字にもわたって書かれていた。「感動した」とか「生きる意味を考えさせられた」とか、その表現はいささかオーバーなきらいはあったものの、そんなことはどうでもよくなるくらい愛に溢れた文章だった。でも、この本をまだ誰も知らない。
ターニャの記事を読んでいくにつれて、彼女は俺の作品をもっと多くの人に読んでほしいと考えていたのが分かった。
涙が止まらなかった。こんな残骸を遺して逝くなんて卑怯な女だと思った。それでもブログを読む手は止まらず、それは最後のページに到達した。そこにはこう書かれていた。
「詳しいことは話せませんが、多分、この記事であたしのブログは終わりになると思います。何かの間違いで先生がこの記事を見つけてくれたら、あたし以外の人にも小説を読ませてあげてほしいな。いつも来てくれるみんなも、このボトルメッセージが届くように大騒ぎしてください、なんてね(笑)」
……彼女が仮想空間という名の大海に流したボトルメッセージは俺に届いていた。いや、彼女は最初から俺がここに到達するであろうことを見抜いていたのかもしれない。今では確かめるすべもないのだけど。彼女は俺なんかよりもずっと才能のある芸術家だったということだ。
俺はまた小説を書きだした。彼女のボトルメッセージが俺へと届いたように、俺の放った言葉が誰かを救うかもしれない。だから、狂ったように書いた。
最近は文学賞を獲っていない素人でも、電子書籍という媒体で小説を世に送り出すことができる。一人しか読者を持たなかった俺は、自意識をこじらせて世界中に自著を送りだしているというわけだ。痛いオッサンだろう。笑ってくれよ。
――君はこの空のどこかで俺を見て笑っているのかもしれない。でも覚悟しろよ、君もいつか泣かされることになる。俺も大海に向けて大量のボトルメッセージを流しだしたからだ。この想いは虹に乗って、君のいるところにだって届くかもしれない。
正直なところ、この言葉が届かなくてもいい。それでも、誰かの魂を揺さぶることができるのであれば、誰かに生きている意味を与えることができるのなら、そこに書く意味はある。
だから見ていてくれ。いつまでも俺を見ていてくれ。
俺はちっぽけでも生きる意義を見つけた。それは贖罪なんかじゃない。だからもう少し頑張ってみるよ。
いつの日か俺がそっちに行ったら、天国で知り合ったダンナでも紹介してくれ。そして、少しだけ俺の相手をしてやってくれ。それだけで、俺はきっと救われるから。
〔了〕
追記
赤毛が泣く方に100ペリカ
あなたにしか作れない特別な本」
君は笑い、少しだけ哀しそうな顔をした。
人生とは無慈悲だ。
俺の気分を象徴するように降り注ぐ驟雨。傘を持っていても意味を成さない。
でも、俺は構わなかった。いっそこの雨がすべてを洗い流してくれたらと思っていた。
この日、婚約者に捨てられた。理由は「好きな人ができたから」という、単純明快かつこれ以上ない理由。冷厳なる現実というものをふいに突きつけられた俺は、その威力に耐えることができなかった。
さっさと見切りをつけたらまだ格好がついただろうに、無意味に「なぜだ?」と食い下がっては醜態をさらした。他の男を好きになる理由なんて腐るほどあるはずなのに。
なまじ出会いがドラマチックだったのが良くなかったのかもしれない。元彼がストーカーと化していた彼女は、その男の影に怯えていた。そいつをブチのめした俺が惚れられたというわけだが、今思えばあのストーカーは俺の未来形ではなかったか。
このまま諦めずに彼女を追い続ければ、新しい恋人とやらにブチのめされる運命が待っているのだろう。ニーチェの永遠回帰がいくらか理解できた気がする。
失意を紛らわすためにヤケ酒をした。お陰で足元はおぼつかない。このまま倒れて死んでしまえたらどれだけ楽だろう。そう思っていたところに大雨が降ってきた。空は、優しい。
通行人が頭を抱えながら走って行く。傘を差していても、雨粒は容赦なく傘の内側まで抉っていく。ざまあみろ。
水びたしの歩道へ乱暴に唾を吐くと、小学生ぐらいの少女が傘も差さずにコンビニの壁にもたれていた。もちろん、ずぶ濡れだ。熱でも出しているのか、その息は荒く、放っておいたら死んでしまいそうな気がした。
無言でその子の前に立った。気付いてはいるのだろうが、俺を見上げようともしない。完全に自分の世界に閉じこもっている。少女はロシア人の血でも入っているのだろうか、綺麗な赤毛の持ち主だった。瞳はライトグリーンで、顔立ちだけは日本人ぽかった。ロリコンだったら大喜びしそうなツインテール。
「大丈夫かい?」
女の子は無様な姿を曝す男に「お前が大丈夫なのかよ?」と返すこともなく、無言で震えていた。日本語が通じないのか。いや、単に怯えていたのかもしれない。
「ママは?」
「……」
少女は謎の黙秘を貫く。俺は対応に困る。気付けば酔いはすっかり覚めていた。
ずぶ濡れの少女は涙目だった。その理由が雨に濡れて寒いからなのか、それとも迷子になったからなのかは分からない。だが、このまま一人にしておいたらロリコンに拉致される可能性がなくもない。
いまだになぜそうしようと思ったのかは知らないが、俺は彼女の手を取ると、そのまま自宅へと連れて帰った。俺自身に誘拐犯やら未成年略取の疑いがかかる可能性を鑑みたら軽率すぎたのだが。
まあ、正直自分が逮捕されようが殺されようがどうでも良かった。愛した女には結婚をふいにされ、「あなたといるのは辛かった」だの「あなたは結局自分自身にしか関心が無かった」だの人格と思い出を全否定されて家を追い出された。彼女にすべてを捧げようとしていた俺にとって、これ以上悪いことなんてあるのかと、そんな気分だった。それに比べたら逮捕なんぞ屁でもなかったのだろう。
だが、この場合は警察を呼ぶのが正しいのだろうか? 救急車を呼ぶのが普通なのだろうか?
大事に至ってないから、どっちにしても怒られそうな気がした。それなら交番に連れて行くか? この雨の中で? 冗談じゃない。理由なんてそんなもんだ。考えてみたら自宅に連れて行く選択肢が一番面倒なのにな。アルコールで頭がおかしくなっていたのだろう。
女の子を自宅に連れ込むと、いや、その表現は語弊があるな。女の子を自宅に入れると、彼女に一人でシャワーを浴びせ、サイズのまったく合わない服を着せてやった。そりゃそうだろう。俺、幼女じゃないし。
着替えが終わるとカップラーメンを作って食わせた。案外空腹が満たされると精神面も持ち直すものだ。はたして少女の機嫌は直り、一言だけ「ありがとう」と言った。なんだ、日本語喋れるじゃねえか。
体も温まったせいか、それとも空腹が満たされたせいなのか、少女は閉ざしていた口を開きだした。
少女は単に親と喧嘩をして衝動的に家出をしただけだった。だが、運悪く土砂降りの雨に遭ってしまい。どうしようかと途方に暮れていたら俺に発見されたのだそうだ。
事情が分かれば話は早い。俺は少女の親に連絡を取り、家まで彼女を引き取りに来てもらった。十分そこらでロシア系の女が来た。年を重ねているせいもあるけど、シャラポワみたいに魅力的なロシア女ではない。日本料理にハマってすっかり太ってしまったロシア人のおばちゃんという感じだった。もちろん、口には出さないけど。
少女は俺に礼を言って帰った。「またカップラーメンが食べたい」とか言うから、「コンビニでいくらでも買えるよ」と返した。そうしたら彼女も「あたし、ターニャ。これからもよろしく」と返す。あんまり人の話を聞く子じゃないらしい。
ターニャの母親は俺の気まぐれにいたく感動したそうで、それからしょっちゅう食事の面倒を見てもらえるようになった。俺もタダ飯が食えるという理由でターニャの家に通うことになったのだが、いつの間にか俺は彼女達の家族みたいになっていた。
ターニャの母親はウクライナ人で、日本人の夫との間にターニャを授かることになったが、ロシア人パブに入り浸っていた夫は妻以外のロシア女と浮気を繰り返しては暴力を振るい、挙句は「出かけてくる」と言ってそのまま帰って来なかったのだそうだ。
母親は自らが唾棄していたロシア人パブで働くことになり、なんとか生計を立てているのだという。こんなワケ有りの家族と出会うあたりがいかにも俺らしい。
だが、彼女達と過ごす時間は楽しかった。ターニャの母親にはまるで性的な魅力を感じなかったけど、家族のように接してくれる親子は温かかった。
婚約者に捨てられてからというもののすっかり女という生き物に嫌気が差していた俺は、次の恋人を作ることもなく、知らぬ間にターニャの家庭教師役になっていた。無償でやっていたから、ターニャの家計にとってもかなり助けにはなったのだろう。その頃からターニャには「先生」と呼ばれるようになっていた。
ターニャの母親には何度か「結婚してほしい」と言われたが、そのたび丁重に断った。そういうのとは、また違うのだ。
光陰矢の如しと言うように、小学生だったターニャはあっという間に高校生となっていた。その美貌は近所でも噂になるほどのものだった。俺はと言えば白髪は増えるし腹回りに付きだした脂肪がなかなか落ちなくて、うっかり玉手箱を半分ぐらい開けてしまったような気分になっていた。ただ、この頃になると俺も無趣味というわけではなかった。
ターニャの家庭教師を始めたあたりから、俺は小説を書くようになっていた。最初は「家庭教師をやるからには恥ずかしくない程度の教養を身に付けないといけない」と本を読みだしたのがきっかけだった。何冊も小説を読んでいる内に、何を血迷ったのか「俺でも小説を書けるかもしれない」なんて思ってしまったのだ。
それからというものの、細々と小説は書いていた。最初はただの暇つぶしだったのに、気付けば「どうやったら読者を楽しませることができるか」とか「どうやったら新しい表現ができるか」とか、そんなことを考えだした。
読者はいつもターニャ一人だった。だから、性描写や暴力描写は極力避けた。そりゃそうだろう。
読み返すと稚拙極まりない小説ばかりだったが、ターニャはいつも俺の小説を楽しみにしていてくれた。たった一人の読者しかいない小説。それでも、俺には書く意味があったのだ。いつの日からかターニャが他の人にも読んでもらいたい」なんて言い出したが、そんなつもりはないから断った。こんな素人が書いた小説を人様に見せるものじゃない。そんな態度を取りながらも、ターニャ一人だけに向けた小説という形で俺は作品を書き続けた。
そんなある日、不吉な知らせは前触れも無くやってきた。
仕事から帰ると、家に置き忘れた携帯電話に何件も着信履歴が入っていた。着信元はターニャの母親だった。ただならぬものを感じて折り返すと、興奮気味の母親に繋がった。自分が慌てまくっているくせに、「落ち着いて聞いてほしい」とか言いだす。
だが、次の瞬間に俺は絶望の淵に立たされた。
――ターニャが倒れた。病名は伏せるが、もう手遅れだった。学校で倒れた彼女は救急車で運ばれて、緊急手術を経たのち病臥に伏している。
俺を取り囲む世界が一気にぶっ壊された気がした。
なんでこんな目に遭わないといけないのだ? 今回もそうだ。俺は何一つ悪いことなどやっていないのに、運命とやらが遊び半分で俺を切り刻む。今、目の前に神がいるのなら、何の躊躇も無くその顔を殴ってやるところだろう。
不幸中の幸いか、何日か経ってターニャは意識を取り戻した。末期症状に間違いはないのだけれど、会話をすることはできる。だから俺は彼女に会いに行った。
絶世の美少女であった彼女からはすっかり生気というものが抜け落ちていた。頬はこけて、手足は枝のように細くなっている。俺が知っているターニャと同じ人物とはとても思えなかった。
ターニャの乗った車椅子を押して、病院の屋上まで行った。二人でずっと、夕日が沈みゆくのを眺めていた。
俺は怖くなった。ターニャを失ったら、自分がどうなってしまうのか想像もつかなかった。どうして俺みたいなゴミが生き残って、天使のようなターニャがその人生に幕を閉じようとしているのか、理解ができなかった。
「最近、先生の小説を読んでないね」
ふいにターニャが語りだした。いい言葉が見つからず、俺はただ「ああ」と返す。
「書いてるの? 小説」
「最近は書いていない。唯一の読者が病床に伏しているからな」
言われて初めて気付いたが、ターニャが倒れてからは小説を書くという行為すら完全に頭から抜け落ちていた。
「そっか。それじゃ書かなくなったのはあたしのせいか」
「そんなことない。俺が無能なだけだ」
夕日に照らされた屋上には沈黙が流れる。空をつがいになったカラスが飛んでいく。その様子を二人でしばらく眺めていた。
「あたし、死ぬのかな?」
「そんなことない」
脊椎反射的に答えた。ムキになって言い返すなんて何年ぶりだろう。
「君は生きていける。まだやりたいことがたくさんあるだろう?」
「そうだね」
ターニャは残照に照らされる雲を眺めながら言った。その顔は、すべてを悟りきった表情だった。
「ねえ、先生」
「なんだ?」
「あたしは生きる」
「当たり前だ」
「でもね、ちょっとヤバいかもっていう気持ちもある。だから、あたしが病気を克服したらご褒美に一個だけ願いを叶えてもらえないかな?」
「いいよ。何をすればいい?」
「ねえ、あたしのために本をつくってくれない?
あなたにしか作れない特別な本」
彼女は笑い、少しだけ哀しそうな顔をした。
「……いいよ。でも小説を書くには時間がかかる。だから、元気になってくれないと読めないぞ」
「いいよ。あたし、絶対に治すから」
「……わかった」
「なに泣いてるの?」
ターニャはクスクスと笑う。知らぬ間に視界が滲み、景色は印象派になっていた。
年を食うと無意味に涙もろくなる。昔の俺なら、こんな弱い人間は唾棄するだけだったはずなのに。
結論から言うと、ターニャに新作を読ませることはできなかった。小説が完成する前に、ターニャがこの世を去ったからだ。俺の胸には、未完の物語と永遠に埋まることの無い穴だけが残った。それがターニャの成長を見守ってきた俺が成した最終生産物だった。無能な俺に相応しい結果だ。
人間、あまりにもつらいことがあると、悲しみという概念すら消え去ってしまうものらしい。俺の中にあるのはただ無気力、無気力だけだった。
ターニャの葬式で母親に言われた。「あなたに愛されて、彼女も幸せだった」と。
本当にそうだろうか?
俺みたいなゴミに愛されて、幸せな人間なんているのだろうか?
俺はその実、関わった人間すべてを不幸に押しやってしまうだけの死神なのではないか? そんな疑念がこの胸に渦巻いて消えなかった。
鬱々としていた毎日を送り、酒に溺れた。何もしてあげられなかった。助けてあげることもできなかった。どれだけアルコールに浸っても罪悪感が消えてくれることはなかった。
そんなある日、ターニャの遺品である課題ノートから、URLだけが書かれた紙切れが出てきた。いい趣味ではないとは思いながらも、そのページにアクセスしてみると、それはターニャがやっていたと思しきブログ記事だった。ブログ運営時は「火属性の女の子」と揶揄されていたみたいで、若さゆえの失言でよく炎上しているようだった。本人は戸惑っているようだったが、俺からすれば微笑ましい光景だった。
俺は思いがけず見つけた宝物を何時間も眺めていた。ここにはターニャの残した体温がたしかにあったのだ。
ページをめくっていった俺は、ふいに目頭が熱くなった。ターニャのブログでは、俺の本を読んだ感想が何千文字にもわたって書かれていた。「感動した」とか「生きる意味を考えさせられた」とか、その表現はいささかオーバーなきらいはあったものの、そんなことはどうでもよくなるくらい愛に溢れた文章だった。でも、この本をまだ誰も知らない。
ターニャの記事を読んでいくにつれて、彼女は俺の作品をもっと多くの人に読んでほしいと考えていたのが分かった。
涙が止まらなかった。こんな残骸を遺して逝くなんて卑怯な女だと思った。それでもブログを読む手は止まらず、それは最後のページに到達した。そこにはこう書かれていた。
「詳しいことは話せませんが、多分、この記事であたしのブログは終わりになると思います。何かの間違いで先生がこの記事を見つけてくれたら、あたし以外の人にも小説を読ませてあげてほしいな。いつも来てくれるみんなも、このボトルメッセージが届くように大騒ぎしてください、なんてね(笑)」
……彼女が仮想空間という名の大海に流したボトルメッセージは俺に届いていた。いや、彼女は最初から俺がここに到達するであろうことを見抜いていたのかもしれない。今では確かめるすべもないのだけど。彼女は俺なんかよりもずっと才能のある芸術家だったということだ。
俺はまた小説を書きだした。彼女のボトルメッセージが俺へと届いたように、俺の放った言葉が誰かを救うかもしれない。だから、狂ったように書いた。
最近は文学賞を獲っていない素人でも、電子書籍という媒体で小説を世に送り出すことができる。一人しか読者を持たなかった俺は、自意識をこじらせて世界中に自著を送りだしているというわけだ。痛いオッサンだろう。笑ってくれよ。
――君はこの空のどこかで俺を見て笑っているのかもしれない。でも覚悟しろよ、君もいつか泣かされることになる。俺も大海に向けて大量のボトルメッセージを流しだしたからだ。この想いは虹に乗って、君のいるところにだって届くかもしれない。
正直なところ、この言葉が届かなくてもいい。それでも、誰かの魂を揺さぶることができるのであれば、誰かに生きている意味を与えることができるのなら、そこに書く意味はある。
だから見ていてくれ。いつまでも俺を見ていてくれ。
俺はちっぽけでも生きる意義を見つけた。それは贖罪なんかじゃない。だからもう少し頑張ってみるよ。
いつの日か俺がそっちに行ったら、天国で知り合ったダンナでも紹介してくれ。そして、少しだけ俺の相手をしてやってくれ。それだけで、俺はきっと救われるから。
〔了〕
追記
赤毛が泣く方に100ペリカ
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