次回作の断片
- 2016/02/14
- 11:40
地獄を味わったからといって、地獄に慣れる事はない。つまり、営業初日と変わらず俺は中西の裏拳を喰らい続けた。
運転が荒いと裏拳を喰らい、得意先での態度がなっていないと裏拳を喰らい、営業車中の会話がつまらないという理由で裏拳を喰らった。なんで裏拳なのかは分からない。
営業が終わって事務所に戻ると、ひたすら伝票を上げる作業が待っていた。会社はいかにも地方の中小企業といった感じで、アナログな環境のまま現代に突入してしまった。つまり、伝票は手書きで書かないといけないという事だ。
やはり中西は営業部長とあってか、伝票の数はやたらと多かった。得意先が送ってきた発注メールを見つつ、手書きで伝票を仕上げていく。仕上げた伝票は幸薄子が入力するという仕組みだ。
抑圧的な生活を送っているせいか、最近は幸薄子とも小さな衝突を繰り返していた。伝票の数があまりにも多いため、ついつい字が汚くなってしまう。
幸薄子からは「字が読めない」というクレームが入ったり、彼女が字を読み間違えておかしな伝票処理をしてしまう事もポツポツと出てきた。そうすると無駄な仕事が増えるから小規模な諍いが起こるのだ。
幸薄子も俺に飽きてしまったのか、最近はめっきり呼ばれなくなった。不幸中の幸いを言えば、あの夜に子供は出来ていなかったという事か。仲が良かった時に「責任を取って結婚してほしい」と言われたらなんとか首を縦に振ったかもしれないが、現状だとお互いの嫌なところも見えてきたので、とても結婚なんぞ考えられない。
自分でもシャツから油っぽい匂いが出ているのが分かる。これが加齢臭というやつか。風呂には入っているのに。
中西が厄介なのは、変なところで兄貴分を気取ろうとするからだ。昼間の仕事では散々俺に裏拳を喰らわせておいて、夜になると近くの中華屋まで呼び出して説教を延々垂れられる。もちろん食費は自腹だ。
油っこい食事を腹に詰め込むと、恒例の如く割り勘でキャバクラに行く事になる。奴曰く「大人の遊びを教えてやる」だそうだ。俺に言わせれば妻子持ちでキャバクラ通いを続けるどうしようもないオッサンの生き様を見せ付けられているだけなのだが。
当然の如く、キャバクラに行けば俺はキャバ嬢以上に気を遣わないといけない。あの男は口では無礼講と言っても決して会社での上下関係を忘れはしない。奴がニヤニヤしながら灰皿にウイスキーを注いだら、俺は喜んでそれを飲み干さないといけない。
旨そうな演技をして灰皿の杯を飲み干す俺に、キャバ嬢が目を白黒させながら「本当に仲がいいんですね」と感心していた。殴ってやろうか。中西も中西で「俺達の絆は強いからなあ」と自慢気に語る。俺としてはこれ以上お前に殴られたくないだけなのだが。
散々苦痛な時間を味合わされると、中西と割り勘で店を後にする。伝票を見たら三万円と書いてあったので思わず二度見してしまったが、どうやら中西が高い酒を頼んだらしい。お気に入りの嬢を抱き寄せて「明日も来る」とか抜かしている。動画でも撮って奥さんまで送ってやろうか。
二日酔いで目を覚ますと、また憂鬱な一日が始まる。電気釜を開けると、蒸気で気持ち悪くなる。妊娠中も似たような症状があるらしいが、俺の中では決して吐き出されない絶望だけがすくすくと育ちつつある。夜も遅くなる事が多くなったので、朝食の準備を前日にする事は無くなった。お陰で似たような朝飯ばかり食べている。とりあえずバナナは飽きて食えなくなった。もう一生食べないのだろう。最近だと納豆も一生食えない食べ物リストに加わりつつある。
暗鬱とした気持ちと、仕事を放り出してどこかへと逃げ出したいという気持ちをなんとか沈めつつ、職場へと向かう。何かの魔法で中西が消えてくれていればいいと思うが、そんな思いも虚しく、あの暴君はいつも不機嫌な顔をして事務所のデスクで得意先に電話をかけている。
中西の付き人生活をしている内に、年末が近付いていた。絶望的な期間は瞬く間に通り過ぎ、まるで浦島太郎にでもなったような気分だった。テレビでの顔ぶれには知らない芸能人が増え、お気に入りのAV女優は次々と引退して消えていく。俺の代わりに幸せになってくれ。
年末には中西の付き人生活も終わり、増本の持っていた顧客を受け継いだ。俺は期待に違わぬ無能っぷりを発揮し、得意先の社長達には若い茶飲み友達程度にしか思われていない。
温情で売上をもらえる時もあるが、それすら無くなったら俺の成績なんぞ発売後数ヶ月の電子書籍か電書ちゃんの胸ぐらい平坦なグラフになっているだろう。それはそうだ。誰がこんな無能から物を買いたいと思うだろうか。
営業で独り立ちをしても、中西から裏拳を喰らう毎日は変わらなかった。営業が終わるとその日の報告を入れるのだが、ここでは具体的に何を売ったのかを報告しないといけない。何かのラッキーでキッチンやらユニットバスなど売上額の大きい商品が出たらいいものの、無能の俺にとってはそんな成績は宝くじを狙うようなもので、つまるところ俺は毎晩裏拳の餌食になった。
毎日裏拳を喰らい続けたせいか、最近は殴られる事に対して精神的な耐性が出来た。ネットで悪口を書かれても裏拳に比べたら遥かにマシなわけで、たかだか悪口を書かれたぐらいで心療科に行ってしまう奴らが違う生物に見えた。だが、これは俺が精神的に強くなったのではなくて、単に暴力に対して逆らう事すら面倒くさくなってしまっただけの話である。これを成長とは言わないだろう。俺は従順で逆らわないロボットになっていた。
気付けばまた酒の量が増えていた。中西とのキャバクラ後にコンビニに立ち寄ると、七〇〇ミリリットルの缶ビールを買ってから帰るのが習慣になっていた。中西と呑む酒は不味過ぎるからだ。
やはり作家業と言うものにはメンタルという要素がかなり大きな要素になるようだ。抑圧下で酒に溺れる俺は、お陰様ですっかり書けなくなっていた。
ようやく年末最後の仕事が終わると、俺は早く実家に帰りたくて仕方がなかった。あれほど忌み嫌った家族にまた嫌味ばかり言われる日々が続くのだろうが、それでも中西から罵倒され、殴られて過ごす毎日よりは少しだけマシのように感じられたからだ。
アルコールで朦朧とした自分に訊いてみる。俺は何のために生きているのだろう?
答えは出て来ない。人生というものが分からなくなってくる。
佐藤は元気にしているだろうか。彼女には夢を掴んでほしい。どうやら俺はダメそうだから。押し付けがましいが、俺の屍を超えて月9のドラマに出るような女優として活躍してほしい。
憂鬱さは波のように寄せては引いていく。アルコールは気休めにもならず、ただ絶望感だけが上塗りされていく。
生きる意味がほしい。こんな負け犬でも生きていて良かったと思える何ががほしい。
振り払っても消えない懊悩に、俺はいつまでも苛まれ続けていた。
運転が荒いと裏拳を喰らい、得意先での態度がなっていないと裏拳を喰らい、営業車中の会話がつまらないという理由で裏拳を喰らった。なんで裏拳なのかは分からない。
営業が終わって事務所に戻ると、ひたすら伝票を上げる作業が待っていた。会社はいかにも地方の中小企業といった感じで、アナログな環境のまま現代に突入してしまった。つまり、伝票は手書きで書かないといけないという事だ。
やはり中西は営業部長とあってか、伝票の数はやたらと多かった。得意先が送ってきた発注メールを見つつ、手書きで伝票を仕上げていく。仕上げた伝票は幸薄子が入力するという仕組みだ。
抑圧的な生活を送っているせいか、最近は幸薄子とも小さな衝突を繰り返していた。伝票の数があまりにも多いため、ついつい字が汚くなってしまう。
幸薄子からは「字が読めない」というクレームが入ったり、彼女が字を読み間違えておかしな伝票処理をしてしまう事もポツポツと出てきた。そうすると無駄な仕事が増えるから小規模な諍いが起こるのだ。
幸薄子も俺に飽きてしまったのか、最近はめっきり呼ばれなくなった。不幸中の幸いを言えば、あの夜に子供は出来ていなかったという事か。仲が良かった時に「責任を取って結婚してほしい」と言われたらなんとか首を縦に振ったかもしれないが、現状だとお互いの嫌なところも見えてきたので、とても結婚なんぞ考えられない。
自分でもシャツから油っぽい匂いが出ているのが分かる。これが加齢臭というやつか。風呂には入っているのに。
中西が厄介なのは、変なところで兄貴分を気取ろうとするからだ。昼間の仕事では散々俺に裏拳を喰らわせておいて、夜になると近くの中華屋まで呼び出して説教を延々垂れられる。もちろん食費は自腹だ。
油っこい食事を腹に詰め込むと、恒例の如く割り勘でキャバクラに行く事になる。奴曰く「大人の遊びを教えてやる」だそうだ。俺に言わせれば妻子持ちでキャバクラ通いを続けるどうしようもないオッサンの生き様を見せ付けられているだけなのだが。
当然の如く、キャバクラに行けば俺はキャバ嬢以上に気を遣わないといけない。あの男は口では無礼講と言っても決して会社での上下関係を忘れはしない。奴がニヤニヤしながら灰皿にウイスキーを注いだら、俺は喜んでそれを飲み干さないといけない。
旨そうな演技をして灰皿の杯を飲み干す俺に、キャバ嬢が目を白黒させながら「本当に仲がいいんですね」と感心していた。殴ってやろうか。中西も中西で「俺達の絆は強いからなあ」と自慢気に語る。俺としてはこれ以上お前に殴られたくないだけなのだが。
散々苦痛な時間を味合わされると、中西と割り勘で店を後にする。伝票を見たら三万円と書いてあったので思わず二度見してしまったが、どうやら中西が高い酒を頼んだらしい。お気に入りの嬢を抱き寄せて「明日も来る」とか抜かしている。動画でも撮って奥さんまで送ってやろうか。
二日酔いで目を覚ますと、また憂鬱な一日が始まる。電気釜を開けると、蒸気で気持ち悪くなる。妊娠中も似たような症状があるらしいが、俺の中では決して吐き出されない絶望だけがすくすくと育ちつつある。夜も遅くなる事が多くなったので、朝食の準備を前日にする事は無くなった。お陰で似たような朝飯ばかり食べている。とりあえずバナナは飽きて食えなくなった。もう一生食べないのだろう。最近だと納豆も一生食えない食べ物リストに加わりつつある。
暗鬱とした気持ちと、仕事を放り出してどこかへと逃げ出したいという気持ちをなんとか沈めつつ、職場へと向かう。何かの魔法で中西が消えてくれていればいいと思うが、そんな思いも虚しく、あの暴君はいつも不機嫌な顔をして事務所のデスクで得意先に電話をかけている。
中西の付き人生活をしている内に、年末が近付いていた。絶望的な期間は瞬く間に通り過ぎ、まるで浦島太郎にでもなったような気分だった。テレビでの顔ぶれには知らない芸能人が増え、お気に入りのAV女優は次々と引退して消えていく。俺の代わりに幸せになってくれ。
年末には中西の付き人生活も終わり、増本の持っていた顧客を受け継いだ。俺は期待に違わぬ無能っぷりを発揮し、得意先の社長達には若い茶飲み友達程度にしか思われていない。
温情で売上をもらえる時もあるが、それすら無くなったら俺の成績なんぞ発売後数ヶ月の電子書籍か電書ちゃんの胸ぐらい平坦なグラフになっているだろう。それはそうだ。誰がこんな無能から物を買いたいと思うだろうか。
営業で独り立ちをしても、中西から裏拳を喰らう毎日は変わらなかった。営業が終わるとその日の報告を入れるのだが、ここでは具体的に何を売ったのかを報告しないといけない。何かのラッキーでキッチンやらユニットバスなど売上額の大きい商品が出たらいいものの、無能の俺にとってはそんな成績は宝くじを狙うようなもので、つまるところ俺は毎晩裏拳の餌食になった。
毎日裏拳を喰らい続けたせいか、最近は殴られる事に対して精神的な耐性が出来た。ネットで悪口を書かれても裏拳に比べたら遥かにマシなわけで、たかだか悪口を書かれたぐらいで心療科に行ってしまう奴らが違う生物に見えた。だが、これは俺が精神的に強くなったのではなくて、単に暴力に対して逆らう事すら面倒くさくなってしまっただけの話である。これを成長とは言わないだろう。俺は従順で逆らわないロボットになっていた。
気付けばまた酒の量が増えていた。中西とのキャバクラ後にコンビニに立ち寄ると、七〇〇ミリリットルの缶ビールを買ってから帰るのが習慣になっていた。中西と呑む酒は不味過ぎるからだ。
やはり作家業と言うものにはメンタルという要素がかなり大きな要素になるようだ。抑圧下で酒に溺れる俺は、お陰様ですっかり書けなくなっていた。
ようやく年末最後の仕事が終わると、俺は早く実家に帰りたくて仕方がなかった。あれほど忌み嫌った家族にまた嫌味ばかり言われる日々が続くのだろうが、それでも中西から罵倒され、殴られて過ごす毎日よりは少しだけマシのように感じられたからだ。
アルコールで朦朧とした自分に訊いてみる。俺は何のために生きているのだろう?
答えは出て来ない。人生というものが分からなくなってくる。
佐藤は元気にしているだろうか。彼女には夢を掴んでほしい。どうやら俺はダメそうだから。押し付けがましいが、俺の屍を超えて月9のドラマに出るような女優として活躍してほしい。
憂鬱さは波のように寄せては引いていく。アルコールは気休めにもならず、ただ絶望感だけが上塗りされていく。
生きる意味がほしい。こんな負け犬でも生きていて良かったと思える何ががほしい。
振り払っても消えない懊悩に、俺はいつまでも苛まれ続けていた。
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