試しに危ない連載をやってみる その5
- 2015/10/20
- 23:09
注:下記は新しくリリース予定である極悪エッセイの一部です。
内容はキツめですので、スルースキルの無い方やマジレスしか出来ないバカ……いや、純粋な方はご遠慮下さい。
新作の「いけ好かない、あまりにいけ好かない」は近日発売予定です。
読書習慣を殺した学校教育に噛みつく
SNSを始めとした脊椎反射社会の背景には、文章をよく読む習慣が無くなってしまった事があるのだと思う。個人作家の中でもしばしば2ちゃんねらーみたいな反応の仕方をする輩がおり、そういう残念な奴らを見ていると、心から「早く筆を折って欲しい」と思う。
でも、考えてみればだが、日本からは読書習慣そのものが廃れてしまっている気がする。別に文化的な習慣が無くても人類にとって支障が無ければそんな習慣は廃れてしまえばいいと思うのだが、日頃生活していてもあまりに文章を読めてない人が多いというか、「何をどう読んだらそんなに頭の悪い受け取り方が出来るんですか?」と訊きたくなるようなバカがハイブロウ(知識人)と呼ばれている人種の中に散見されるのはどうなんだと思う。
思うに、これは学校教育で読書の面白さを生徒に伝えられなかった事に根本的な失敗の要因があるのではないか?
実のところ、俺も読書を真面目にやりだしたのはここ五年ぐらいの話で、それまでは年間五冊本を読んでいたかどうかも怪しい。くだらない自己啓発本とかビジネス書も含めてだ。
だが、ある日をきっかけにして読書が趣味になり、気が付いたら自分で小説を書くようになっていた。あんまり自分語りをしてもアレなのでほどほどにしておくが。
あれだけ読書を「つまんねえ」とバカにしていた俺ですら、本を読む楽しさを知ったら本を読むようになったのだ。つまりだ、読書に対してニュートラルな姿勢を持っている人間に働きかければ、読書人口はもっと増えるはずなのだ。
それで思った。日本の読書習慣を殺した戦犯は主に学校教育だと。
奴らはマジでいけ好かなかった。読んだ事も無い「暗夜行路」の著者を知らないというだけで俺をバカ呼ばわりして、現代の著名作家が書いた小説を陳腐と貶してはそれこそ陳腐極まりない書評を書いて俺達生徒を鼻白ませた。今思えば、あの国語教師達もわなびに属する人だったのかもしれない。
まだ「こころ」ぐらいならいい。というか、これも読んだ当時は暗すぎて嫌になったのをよく憶えているが。だが、明らかに初心者向けではない古典を小中学生に読ませる事がそもそも間違いなのではないか?
まず仮名遣いの違いからリーダビリティーの点で難があるし、古典の方が自分から「掴みにいく」読み方が必要になる。はっきり言って初心者にそんな読み方が出来るはずがない。朝日新聞で眩暈を起こしてしまうような連中に純文学を読ませるのは拷問に等しい。というか俺が当時そう感じていたのだが。
こうなると悲惨だ。わずかなインテリ層を除いた人間にとって読書とは「クソつまんない」ものとして認識され、ほとんどの子供はゲームやらスマホへと流れていく。しつこいようだが、俺自身がそうだった。
そう考えるとだ、別に読書感想文にライトノベルを選ぶ生徒がいたっていいじゃないかと思ってしまうのだ。まずは読書習慣に至る第一歩を踏み出す事が大事なのではないのか? そこのところをバカな国語教師は格式やら世間体に縛られて見失っている。いや、今は違うのか?
いっぺん悪ノリで芥川の桃太郎でも教科書に載せたらいいのだ。中学生あたりなら間違いなく喜ぶだろう。村上春樹のエロい部分でもいいじゃないか。読書習慣という最終目標に行き着くのであれば、どんな道筋を辿ったっていいではないか。その導線がエロであったら何がいけないのだ?
まあ、こんな事を声高に言っても教育現場の当事者には届かないだろう。というわけで、こちらはこちらとして小中学生でも読めるリーダビリティーを保ちつつ、かつ懐の深い作品を書いていくよう努力するだけである。
ちなみにだが、現代で最も偉大な大作家として知られるドストエフスキーは、生きている頃は「新聞にメロドラマを書いている大衆作家」と専門家からバカにされていた。あの頃のロシアで、彼の他に知られている文豪って一体誰なんでしょうね?
そういう意味では、たとえあなたが高尚な純文学を好む人間であったとしても、学生から消えつつある読書習慣を崖っぷちで何とか支えているライトノベルをバカにしてはいけない。
おそらくラノベが消えたら読書という概念そのものが日本から消え去ってしまうだろう。そして社会はますます救いがたいバカで溢れる事になる。その恐ろしさを考えたら、ラノベはたしかに日本の救世主なのである。
内容はキツめですので、スルースキルの無い方やマジレスしか出来ないバカ……いや、純粋な方はご遠慮下さい。
新作の「いけ好かない、あまりにいけ好かない」は近日発売予定です。
読書習慣を殺した学校教育に噛みつく
SNSを始めとした脊椎反射社会の背景には、文章をよく読む習慣が無くなってしまった事があるのだと思う。個人作家の中でもしばしば2ちゃんねらーみたいな反応の仕方をする輩がおり、そういう残念な奴らを見ていると、心から「早く筆を折って欲しい」と思う。
でも、考えてみればだが、日本からは読書習慣そのものが廃れてしまっている気がする。別に文化的な習慣が無くても人類にとって支障が無ければそんな習慣は廃れてしまえばいいと思うのだが、日頃生活していてもあまりに文章を読めてない人が多いというか、「何をどう読んだらそんなに頭の悪い受け取り方が出来るんですか?」と訊きたくなるようなバカがハイブロウ(知識人)と呼ばれている人種の中に散見されるのはどうなんだと思う。
思うに、これは学校教育で読書の面白さを生徒に伝えられなかった事に根本的な失敗の要因があるのではないか?
実のところ、俺も読書を真面目にやりだしたのはここ五年ぐらいの話で、それまでは年間五冊本を読んでいたかどうかも怪しい。くだらない自己啓発本とかビジネス書も含めてだ。
だが、ある日をきっかけにして読書が趣味になり、気が付いたら自分で小説を書くようになっていた。あんまり自分語りをしてもアレなのでほどほどにしておくが。
あれだけ読書を「つまんねえ」とバカにしていた俺ですら、本を読む楽しさを知ったら本を読むようになったのだ。つまりだ、読書に対してニュートラルな姿勢を持っている人間に働きかければ、読書人口はもっと増えるはずなのだ。
それで思った。日本の読書習慣を殺した戦犯は主に学校教育だと。
奴らはマジでいけ好かなかった。読んだ事も無い「暗夜行路」の著者を知らないというだけで俺をバカ呼ばわりして、現代の著名作家が書いた小説を陳腐と貶してはそれこそ陳腐極まりない書評を書いて俺達生徒を鼻白ませた。今思えば、あの国語教師達もわなびに属する人だったのかもしれない。
まだ「こころ」ぐらいならいい。というか、これも読んだ当時は暗すぎて嫌になったのをよく憶えているが。だが、明らかに初心者向けではない古典を小中学生に読ませる事がそもそも間違いなのではないか?
まず仮名遣いの違いからリーダビリティーの点で難があるし、古典の方が自分から「掴みにいく」読み方が必要になる。はっきり言って初心者にそんな読み方が出来るはずがない。朝日新聞で眩暈を起こしてしまうような連中に純文学を読ませるのは拷問に等しい。というか俺が当時そう感じていたのだが。
こうなると悲惨だ。わずかなインテリ層を除いた人間にとって読書とは「クソつまんない」ものとして認識され、ほとんどの子供はゲームやらスマホへと流れていく。しつこいようだが、俺自身がそうだった。
そう考えるとだ、別に読書感想文にライトノベルを選ぶ生徒がいたっていいじゃないかと思ってしまうのだ。まずは読書習慣に至る第一歩を踏み出す事が大事なのではないのか? そこのところをバカな国語教師は格式やら世間体に縛られて見失っている。いや、今は違うのか?
いっぺん悪ノリで芥川の桃太郎でも教科書に載せたらいいのだ。中学生あたりなら間違いなく喜ぶだろう。村上春樹のエロい部分でもいいじゃないか。読書習慣という最終目標に行き着くのであれば、どんな道筋を辿ったっていいではないか。その導線がエロであったら何がいけないのだ?
まあ、こんな事を声高に言っても教育現場の当事者には届かないだろう。というわけで、こちらはこちらとして小中学生でも読めるリーダビリティーを保ちつつ、かつ懐の深い作品を書いていくよう努力するだけである。
ちなみにだが、現代で最も偉大な大作家として知られるドストエフスキーは、生きている頃は「新聞にメロドラマを書いている大衆作家」と専門家からバカにされていた。あの頃のロシアで、彼の他に知られている文豪って一体誰なんでしょうね?
そういう意味では、たとえあなたが高尚な純文学を好む人間であったとしても、学生から消えつつある読書習慣を崖っぷちで何とか支えているライトノベルをバカにしてはいけない。
おそらくラノベが消えたら読書という概念そのものが日本から消え去ってしまうだろう。そして社会はますます救いがたいバカで溢れる事になる。その恐ろしさを考えたら、ラノベはたしかに日本の救世主なのである。
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