映画版「屍者の帝国」を観た
- 2015/10/12
- 15:14
かねてから楽しみにしていた「屍者の帝国」の映画版を観に行った。というわけで、珍しくハードボイルド風に口調を変えて映画のレビュー記事だ。ネタバレ全開になるからまだ映画を観ていない人はご了承を。
本作はその名の通り死体が労働力や兵器として活躍するSF歴史小説(?)のような作品である。冒頭は主人公のジョン・H・ワトソンが友人のフライデーの死体を使って、この世を動き回る死者を作り出すところから始まるが、詳しいストーリーラインについては他のところでいくらでも書いてあると思うので省く。基本は私の自意識の垂れ流しだ。
「屍者の帝国」映画版を観る前から、本作は映像化しやすい作品だろうと思っていた。単純に動き回る屍者を表現するのには大した苦労も無いだろうし、後はあの小説をどのように120分という枠の中に落としこむのか。そこに興味があった。
結論から言えば細かい不満点はあるものの、かなり巧いこと映像化したのではないかと思っている。どうやら映画用に設定を変えた部分もあるらしいが、個人的にそれは正解だったと思う。密かに心配していた屍者の設定をダラダラとナレーションで流すような愚行も無かったし、かつ深みのある話が描けていたと思う。
ただ一つ難を言うなら、(原作もそういうところがあったが)ある種「掴み」にいかないと理解出来ない部分があり、ボーっと観ていると何で隣の観客が泣いているのか理解出来ないという人も出てくるだろう。
私は「屍者の帝国」原作は勿論の事、「カラマーゾフの兄弟」と江川卓の解釈本、そして江戸川乱歩賞の「カラマーゾフの妹」も読んでいる筋金入りのカラマーゾフ好きである。だからコーリャ(クラソートキン)が出てきた時は密かに喜んでいたし、アリョーシャがテロリストのような扱いを受けていた設定には嬉しさで震えた。というのも、(実は一般的にはあまり知られていないのだが)「カラマーゾフの兄弟」は未完の作品で、アリョーシャは敬虔なキリスト教徒からテロリストになるはずだったのではないか? と言われているからだ。
この件については江川卓の「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」を読んでもらうといい。その代わり「カラマーゾフの兄弟」本編より先には絶対に読んではいけない。
話がだいぶ逸れた。映像化した「屍者の帝国」はいい意味でいかにもアニメっぽくなったなと思っている。アニメ化を逆手にとったような、ある種あざとい計算も含まれているようで、たとえば多くの男性諸君をトリコにしたであろうハダリーは男の欲望をそのまま絵にしたようなスタイルだが、のちにその理由が確かに男の欲望がそのまま具現化したからである事が分かるのだ(笑)。
それに付随して彼女を作り出したエジソンがドスケベという事も分かる。いや、男なんて考える事は大体同じようなものか。最初にハダリーを見た時、彼女の胸に目が行った男の比率は間違いなく9割を超えているだろう。
またくだらない方向に話が逸れた。いい加減にしてくれ。
このままだとレビューが終わらないので核心に入るが、本作で問われているのはひたすら「魂とはなんぞ?」という事ではないか。他にも複合的なテーマは色々と見えているが、一番主要なテーマは人間の持つ魂についてだと思う。
生きた友人ともう一度語らうために全人類を恐怖のドン底に叩き落したワトソンはよくよく見たら明らかに狂人だし、ついでにホモ疑惑すら出てくる。ここまで来たら「実はこの映画は壮大なBLなのではないか?」という見方すら出来るだろう。それは冗談だが。
本作の登場人物はある種共通した罠に陥っていた気がする。それは彼らにとって魂が所有物であるという考えだ。魂は意識している事を意識している人そのものであり、頭に仕舞い込んであるものでなければ胸の奥に埋まっているわけでもない。それはあなた自身なのだ。あなたは意識さえあれば思考せずとも最初からそこにいたのだ。
だが同じ間違いを犯していたのは何も彼らだけではない。劇中ではあれほど気取っていたザ・ワンですらかつて愛した人の思い出には勝てなかったわだし、ザ・ワンやMを止めた他ならぬワトソンが最後に彼らと同じ轍を踏んでしまったというのは実に皮肉だ。あの登場人物らの中で一番まともな人間を訊かれたら、それは明らかにバーナビーである。彼は唯一今生きている人のために闘っていた。
この物語では多くの登場人物が死んだ人のために闘って血を流している。それは私達が生きる現代においても敷衍して考える事は出来ないか。
映画を観終わって真っ先に思った事は「死んだ人のために闘っている人間よりも生きている人を守ろうとしている人間の方が強い」という事だ。やや反骨的な思考ではあるが。
そういう意味では、最後は(たとえご都合主義で終わったとしても)ヴィクターの手記の呪いから救われた世界という締めくくりで良かったのではないかと思っている。あくまで個人的な見解だけど。
ただ、本作を観た事により、もう一度小説の方を読んでみたくなったのは事実だ。本作は著者であったはずの伊藤計劃が冒頭の草稿30枚だけを書いて亡くなり、その遺志を円城塔が引き継ぐというメタな展開で執筆されている。まさにこの小説は死者に思いを繋ぐ作家の手でその生命の炎を燃やしているのである。なかなか涙を誘う話ではないか。
伊藤計劃はもういない。だけど、彼のミームはそれを観たり読んだりしてきた我々の血の中で脈々と流れ続けている。それは有機的な遺伝子ではないけれど、彼はたしかにこの世界へ「何か」を遺したのだ。その「何か」は、色々な作家や読者へと受け継がれていき、いつかそれが存在していたのか分からないぐらいの濃度になる。でも、それはたしかに後世の人間の中に残り続けるのだ。
……残り続けるのだ。分かるだろう?
本作はその名の通り死体が労働力や兵器として活躍するSF歴史小説(?)のような作品である。冒頭は主人公のジョン・H・ワトソンが友人のフライデーの死体を使って、この世を動き回る死者を作り出すところから始まるが、詳しいストーリーラインについては他のところでいくらでも書いてあると思うので省く。基本は私の自意識の垂れ流しだ。
「屍者の帝国」映画版を観る前から、本作は映像化しやすい作品だろうと思っていた。単純に動き回る屍者を表現するのには大した苦労も無いだろうし、後はあの小説をどのように120分という枠の中に落としこむのか。そこに興味があった。
結論から言えば細かい不満点はあるものの、かなり巧いこと映像化したのではないかと思っている。どうやら映画用に設定を変えた部分もあるらしいが、個人的にそれは正解だったと思う。密かに心配していた屍者の設定をダラダラとナレーションで流すような愚行も無かったし、かつ深みのある話が描けていたと思う。
ただ一つ難を言うなら、(原作もそういうところがあったが)ある種「掴み」にいかないと理解出来ない部分があり、ボーっと観ていると何で隣の観客が泣いているのか理解出来ないという人も出てくるだろう。
私は「屍者の帝国」原作は勿論の事、「カラマーゾフの兄弟」と江川卓の解釈本、そして江戸川乱歩賞の「カラマーゾフの妹」も読んでいる筋金入りのカラマーゾフ好きである。だからコーリャ(クラソートキン)が出てきた時は密かに喜んでいたし、アリョーシャがテロリストのような扱いを受けていた設定には嬉しさで震えた。というのも、(実は一般的にはあまり知られていないのだが)「カラマーゾフの兄弟」は未完の作品で、アリョーシャは敬虔なキリスト教徒からテロリストになるはずだったのではないか? と言われているからだ。
この件については江川卓の「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」を読んでもらうといい。その代わり「カラマーゾフの兄弟」本編より先には絶対に読んではいけない。
話がだいぶ逸れた。映像化した「屍者の帝国」はいい意味でいかにもアニメっぽくなったなと思っている。アニメ化を逆手にとったような、ある種あざとい計算も含まれているようで、たとえば多くの男性諸君をトリコにしたであろうハダリーは男の欲望をそのまま絵にしたようなスタイルだが、のちにその理由が確かに男の欲望がそのまま具現化したからである事が分かるのだ(笑)。
それに付随して彼女を作り出したエジソンがドスケベという事も分かる。いや、男なんて考える事は大体同じようなものか。最初にハダリーを見た時、彼女の胸に目が行った男の比率は間違いなく9割を超えているだろう。
またくだらない方向に話が逸れた。いい加減にしてくれ。
このままだとレビューが終わらないので核心に入るが、本作で問われているのはひたすら「魂とはなんぞ?」という事ではないか。他にも複合的なテーマは色々と見えているが、一番主要なテーマは人間の持つ魂についてだと思う。
生きた友人ともう一度語らうために全人類を恐怖のドン底に叩き落したワトソンはよくよく見たら明らかに狂人だし、ついでにホモ疑惑すら出てくる。ここまで来たら「実はこの映画は壮大なBLなのではないか?」という見方すら出来るだろう。それは冗談だが。
本作の登場人物はある種共通した罠に陥っていた気がする。それは彼らにとって魂が所有物であるという考えだ。魂は意識している事を意識している人そのものであり、頭に仕舞い込んであるものでなければ胸の奥に埋まっているわけでもない。それはあなた自身なのだ。あなたは意識さえあれば思考せずとも最初からそこにいたのだ。
だが同じ間違いを犯していたのは何も彼らだけではない。劇中ではあれほど気取っていたザ・ワンですらかつて愛した人の思い出には勝てなかったわだし、ザ・ワンやMを止めた他ならぬワトソンが最後に彼らと同じ轍を踏んでしまったというのは実に皮肉だ。あの登場人物らの中で一番まともな人間を訊かれたら、それは明らかにバーナビーである。彼は唯一今生きている人のために闘っていた。
この物語では多くの登場人物が死んだ人のために闘って血を流している。それは私達が生きる現代においても敷衍して考える事は出来ないか。
映画を観終わって真っ先に思った事は「死んだ人のために闘っている人間よりも生きている人を守ろうとしている人間の方が強い」という事だ。やや反骨的な思考ではあるが。
そういう意味では、最後は(たとえご都合主義で終わったとしても)ヴィクターの手記の呪いから救われた世界という締めくくりで良かったのではないかと思っている。あくまで個人的な見解だけど。
ただ、本作を観た事により、もう一度小説の方を読んでみたくなったのは事実だ。本作は著者であったはずの伊藤計劃が冒頭の草稿30枚だけを書いて亡くなり、その遺志を円城塔が引き継ぐというメタな展開で執筆されている。まさにこの小説は死者に思いを繋ぐ作家の手でその生命の炎を燃やしているのである。なかなか涙を誘う話ではないか。
伊藤計劃はもういない。だけど、彼のミームはそれを観たり読んだりしてきた我々の血の中で脈々と流れ続けている。それは有機的な遺伝子ではないけれど、彼はたしかにこの世界へ「何か」を遺したのだ。その「何か」は、色々な作家や読者へと受け継がれていき、いつかそれが存在していたのか分からないぐらいの濃度になる。でも、それはたしかに後世の人間の中に残り続けるのだ。
……残り続けるのだ。分かるだろう?
スポンサーサイト