紅い悲劇
- 2015/09/19
- 00:32
「今日のご飯代です。頑張ってすぐに帰るからね」
小奇麗なメモ書きの下には、一万円札が置いてある。俺はそれを手にとって、指で皺を伸ばしながら寝っ転がる。
――ここに潜伏してから結構な時間が経った。
電車で凶弾に襲われてから、俺は東京から逃れていた。目指したのはかつて勤めていた会社があった県だ。会社に残った後輩によると、あの頃俺を蹂躙したクソ上司は、さらに僻地の営業所まで栄転の名目で飛ばされたそうだ。
さて、命からがら助かった俺は、かつて俺の世話をしていた女である志穂(仮名)のところにいる。東京に帰る際、彼女には「別れたくない」と泣きつかれたものだったが、今では俺が彼女の庇護下で暮らす事になっている。我ながらなんて情けない野郎だと思う。
だが、幸いにも彼女は俺を撥ね退ける事はなかった。逃げてきた事情を話したがらない俺に文句一つ言わず、この家に匿ってくれた。
思えば申し訳ない事をした。志穂は俺との別離をきっかけとして異性に疲れてしまったようで、あれから何年も経った今もなお恋人を作れずにいる。傷つけないように彼女の前を去ったのに、一生拭えない傷を負わせてしまったのは遺憾極まりない。
だが、彼女は俺を受け入れてくれたのだ。パートしかやっていないはずなのに毎朝必ず用意されている一万円の資金源も教えてくれないし、こりゃ後で色々と責任を取らないといけないかもしれない。俺も年貢の納め時か。
そんな事を思っていると、インターフォンが鳴った。正直おっかなかったが、彼女でも通販の一つでもする事はあるだろう。足音を消しつつ、覗き窓を見る。
だが、それは杞憂だった。ドアの前には、制服姿の女子高生が立っていたからだ。俺は速攻でドアを開けると、キメ顔を作りながら「何か御用ですかレイディー?」とスカしてみた。
「追われているんです。助けて下さい」
……よく分からないが、多分アニメの影響でも受けてるんだろう。俺は彼女を部屋に引き入れた。一応何かから助けるという大義名分もあるし、まあ大丈夫だろう。
さて、ゴムは残っていたかな、という軽口を叩きそうになり、なんとか自重する。お陰で猿ぐつわをされているみたいなくぐもった声が出てきたが、まあ彼女には聞こえちゃいないだろう。
「コーヒーでも淹れるよ」と言いながら、もう一度JKの顔をチェックする。まあ、そこそこか。俺は天秤の両側にコーヒーでないものをいれるリスクと快楽を乗せて、その秤がどちらに傾くかを脳内で計算してみる。
だが、ずっと無言でいるとJKがかわいそうなので、適当に会話を繋ぐ。
「で、追われているって、どういう事?」
「信じてもらえないかもしれませんけど……」JKはゆっくりと口を開いた。
「わたしのパパが、通勤中に射殺されてしまったんです。なんでも、知ってはいけない事を知ってしまったみたいで」
こめかみ付近の血管がプクっと膨らむのを感じた。まさかとは思いつつも、俺は沈黙を保つ。
「これを見てもらえますか?」
JKはおもむろに鞄からファイルを取り出した。中身をパラパラ読んでみると何かの組織について書いてあるようだが、ところどころに二進法のような表記があり、その内容はよく分からない。最後の方には「レッドパージを忘れるな」と書いてあった。
「父はこのファイルを守るよう私に言っていました。その時は何を言ってるんだろうぐらいにしか思わなかったんですけど、まさかあんな事になるなんて……」
「その、お父さんはどこで殺されたんだ?」
俺は半ば確信めいたものを感じつつ、胸の動悸に耐えていた。
「山手線です」
「ぐはっ! 近っ!」
俺の悪寒は的中した。この少女こそ、俺の代わりに凶弾を受けた犠牲者の娘だったのだ。
だが、待てよ? それだったら、あの赤毛の女が狙っていたのは俺ではなかったのか? 大体山手線からこの県まではだいぶ距離があるが、この少女は偶然にも俺の所まで辿り着いたというのか? そんな事ありえるのか?
自問自答で戸惑う俺をよそに、少女の独白が続く。
「わたし、怖いんです。お願い! ボクサーであるあなたに守ってもらいたいの! お願い、わたしを助けて!」
少女はウルウルした目で俺にしがみついた。この好機を逃すと色々と後悔しそうなので、ドサクサに紛れて抱きしめ返してみる。柔らかい。こんな状況でも下腹部には熱がこもり、硬くなったものが少女に当たって高感度を下げないように水面下で努力しないといけないのは男の性なのか?
……だが、お前、今なんて言った?
「なんで、俺がボクサーだって知っている?」
その瞬間、声を震わせて泣く少女の頭がピタリと止まった。全身に寒気が走り、さっきまでいきり立っていたエクスカリバーはすっかりひのきのぼうレベルまでに冷たく、柔らかくなっていた。
「あーら、バレちゃった?」
心臓がものすごい勢いで早鐘を打つ。俺の本能は、思考よりも早く拳を動かしていた。
不意打ちで放たれたフックを楽々スウェーでかわすと、さっきまで俺にしがみついていた少女はトントントンと軽やかにバックステップを踏んで距離を取る。
鬼さんこちら 手のなる方へ♪
鬼さんこちら 手のなる方へ♪
鬼さんこちら 手のなる方へ♪
「見いつけた。見いつけた。見いつけた。フフフ、フフフ、フフフ」
邪悪なローラみたいな口調で笑う少女の顔は、タチの悪いマジックのようにみるみる陰険さを増していく。
目の周囲は隈取りのような黒いアイラインが引かれ、その髪はギャルゲーの髪色を無理くり地毛で再現しようとしてホラー化したコスプレイヤーを思わせた。これが俺に抱きついていた女の、本当の姿だというのか?

「逃げられるとでも思っていたの――この、赤毛同盟から?」
「うわあああ!」
明らかに人間じゃない奴を発見した俺は、ボクサーの矜持なんか捨ててさっさと逃げ出した。おそらくコイツは超能力とかを使ってSWATが無能な集団に見えるぐらいの勢いで惨殺するタイプの奴だ。そんな奴と正面から戦うなんて狂っている。
俺は靴も履かずに玄関ドアを蹴破り、外へと猛ダッシュした。
「シローちゃん?」
ドアのすぐ外に立っていたのは志穂だった。なんてこった。こんなタイミングで仕事から帰って来るなんて。
「志穂おおおお! 逃げろおおおお!」
「え? どういうこと?」
その刹那、閑静な住宅街のは銃声が響く。脳裏にはあの悪夢が蘇る。撃たれたと思った俺は、思わず身をすくめる。だが、どこにも痛みはない。どうやらライフルの餌食にはならなかったようだ。
「シローちゃん……」
ハッとして前を見やると、顔面を真っ赤に染めた志穂が、哀しそうな笑顔で俺に何かを訊こうとしていた。その言葉は唇の外へ行く事もなく、紅く染まったかつての恋人はゆっくりと崩れ落ちた。
もう、悲しんでいる暇なんてなかった。
俺は走った。泣いた。そして、走った。もはや格闘家のプライドは粉々になっていた。
俺は愛する人を守るために日々その拳を研鑽したのではなかったのか?
いざという時に誰かを助けられるように、その心を、その体を鍛えてきたのではなかったのか?
それも、凶弾の前ではすべて無力だった。
何だったのだ、俺が歩んできた道は……?
何だったのだ、この俺が守ろうとしていた信念は……?
無力だった。悔しかった。でも、生きなければいけなかった。俺は生きなければいけなかったのだ、畜生!
泣きながら後ろを見やると、邪悪なツインテールが俺を嗤っていた。その眼は確実に「お前なんぞいつでも殺せる」と言っていた。
俺はまた逃げなければならない。そして、まだ生き延びないといけない。
志穂、すまなかった。君の仇は、必ずとる。
だから待っていてくれ。神なんか信じちゃいないが、君のご加護なら信じられる。
だから、どうか……。
小奇麗なメモ書きの下には、一万円札が置いてある。俺はそれを手にとって、指で皺を伸ばしながら寝っ転がる。
――ここに潜伏してから結構な時間が経った。
電車で凶弾に襲われてから、俺は東京から逃れていた。目指したのはかつて勤めていた会社があった県だ。会社に残った後輩によると、あの頃俺を蹂躙したクソ上司は、さらに僻地の営業所まで栄転の名目で飛ばされたそうだ。
さて、命からがら助かった俺は、かつて俺の世話をしていた女である志穂(仮名)のところにいる。東京に帰る際、彼女には「別れたくない」と泣きつかれたものだったが、今では俺が彼女の庇護下で暮らす事になっている。我ながらなんて情けない野郎だと思う。
だが、幸いにも彼女は俺を撥ね退ける事はなかった。逃げてきた事情を話したがらない俺に文句一つ言わず、この家に匿ってくれた。
思えば申し訳ない事をした。志穂は俺との別離をきっかけとして異性に疲れてしまったようで、あれから何年も経った今もなお恋人を作れずにいる。傷つけないように彼女の前を去ったのに、一生拭えない傷を負わせてしまったのは遺憾極まりない。
だが、彼女は俺を受け入れてくれたのだ。パートしかやっていないはずなのに毎朝必ず用意されている一万円の資金源も教えてくれないし、こりゃ後で色々と責任を取らないといけないかもしれない。俺も年貢の納め時か。
そんな事を思っていると、インターフォンが鳴った。正直おっかなかったが、彼女でも通販の一つでもする事はあるだろう。足音を消しつつ、覗き窓を見る。
だが、それは杞憂だった。ドアの前には、制服姿の女子高生が立っていたからだ。俺は速攻でドアを開けると、キメ顔を作りながら「何か御用ですかレイディー?」とスカしてみた。
「追われているんです。助けて下さい」
……よく分からないが、多分アニメの影響でも受けてるんだろう。俺は彼女を部屋に引き入れた。一応何かから助けるという大義名分もあるし、まあ大丈夫だろう。
さて、ゴムは残っていたかな、という軽口を叩きそうになり、なんとか自重する。お陰で猿ぐつわをされているみたいなくぐもった声が出てきたが、まあ彼女には聞こえちゃいないだろう。
「コーヒーでも淹れるよ」と言いながら、もう一度JKの顔をチェックする。まあ、そこそこか。俺は天秤の両側にコーヒーでないものをいれるリスクと快楽を乗せて、その秤がどちらに傾くかを脳内で計算してみる。
だが、ずっと無言でいるとJKがかわいそうなので、適当に会話を繋ぐ。
「で、追われているって、どういう事?」
「信じてもらえないかもしれませんけど……」JKはゆっくりと口を開いた。
「わたしのパパが、通勤中に射殺されてしまったんです。なんでも、知ってはいけない事を知ってしまったみたいで」
こめかみ付近の血管がプクっと膨らむのを感じた。まさかとは思いつつも、俺は沈黙を保つ。
「これを見てもらえますか?」
JKはおもむろに鞄からファイルを取り出した。中身をパラパラ読んでみると何かの組織について書いてあるようだが、ところどころに二進法のような表記があり、その内容はよく分からない。最後の方には「レッドパージを忘れるな」と書いてあった。
「父はこのファイルを守るよう私に言っていました。その時は何を言ってるんだろうぐらいにしか思わなかったんですけど、まさかあんな事になるなんて……」
「その、お父さんはどこで殺されたんだ?」
俺は半ば確信めいたものを感じつつ、胸の動悸に耐えていた。
「山手線です」
「ぐはっ! 近っ!」
俺の悪寒は的中した。この少女こそ、俺の代わりに凶弾を受けた犠牲者の娘だったのだ。
だが、待てよ? それだったら、あの赤毛の女が狙っていたのは俺ではなかったのか? 大体山手線からこの県まではだいぶ距離があるが、この少女は偶然にも俺の所まで辿り着いたというのか? そんな事ありえるのか?
自問自答で戸惑う俺をよそに、少女の独白が続く。
「わたし、怖いんです。お願い! ボクサーであるあなたに守ってもらいたいの! お願い、わたしを助けて!」
少女はウルウルした目で俺にしがみついた。この好機を逃すと色々と後悔しそうなので、ドサクサに紛れて抱きしめ返してみる。柔らかい。こんな状況でも下腹部には熱がこもり、硬くなったものが少女に当たって高感度を下げないように水面下で努力しないといけないのは男の性なのか?
……だが、お前、今なんて言った?
「なんで、俺がボクサーだって知っている?」
その瞬間、声を震わせて泣く少女の頭がピタリと止まった。全身に寒気が走り、さっきまでいきり立っていたエクスカリバーはすっかりひのきのぼうレベルまでに冷たく、柔らかくなっていた。
「あーら、バレちゃった?」
心臓がものすごい勢いで早鐘を打つ。俺の本能は、思考よりも早く拳を動かしていた。
不意打ちで放たれたフックを楽々スウェーでかわすと、さっきまで俺にしがみついていた少女はトントントンと軽やかにバックステップを踏んで距離を取る。
鬼さんこちら 手のなる方へ♪
鬼さんこちら 手のなる方へ♪
鬼さんこちら 手のなる方へ♪
「見いつけた。見いつけた。見いつけた。フフフ、フフフ、フフフ」
邪悪なローラみたいな口調で笑う少女の顔は、タチの悪いマジックのようにみるみる陰険さを増していく。
目の周囲は隈取りのような黒いアイラインが引かれ、その髪はギャルゲーの髪色を無理くり地毛で再現しようとしてホラー化したコスプレイヤーを思わせた。これが俺に抱きついていた女の、本当の姿だというのか?

「逃げられるとでも思っていたの――この、赤毛同盟から?」
「うわあああ!」
明らかに人間じゃない奴を発見した俺は、ボクサーの矜持なんか捨ててさっさと逃げ出した。おそらくコイツは超能力とかを使ってSWATが無能な集団に見えるぐらいの勢いで惨殺するタイプの奴だ。そんな奴と正面から戦うなんて狂っている。
俺は靴も履かずに玄関ドアを蹴破り、外へと猛ダッシュした。
「シローちゃん?」
ドアのすぐ外に立っていたのは志穂だった。なんてこった。こんなタイミングで仕事から帰って来るなんて。
「志穂おおおお! 逃げろおおおお!」
「え? どういうこと?」
その刹那、閑静な住宅街のは銃声が響く。脳裏にはあの悪夢が蘇る。撃たれたと思った俺は、思わず身をすくめる。だが、どこにも痛みはない。どうやらライフルの餌食にはならなかったようだ。
「シローちゃん……」
ハッとして前を見やると、顔面を真っ赤に染めた志穂が、哀しそうな笑顔で俺に何かを訊こうとしていた。その言葉は唇の外へ行く事もなく、紅く染まったかつての恋人はゆっくりと崩れ落ちた。
もう、悲しんでいる暇なんてなかった。
俺は走った。泣いた。そして、走った。もはや格闘家のプライドは粉々になっていた。
俺は愛する人を守るために日々その拳を研鑽したのではなかったのか?
いざという時に誰かを助けられるように、その心を、その体を鍛えてきたのではなかったのか?
それも、凶弾の前ではすべて無力だった。
何だったのだ、俺が歩んできた道は……?
何だったのだ、この俺が守ろうとしていた信念は……?
無力だった。悔しかった。でも、生きなければいけなかった。俺は生きなければいけなかったのだ、畜生!
泣きながら後ろを見やると、邪悪なツインテールが俺を嗤っていた。その眼は確実に「お前なんぞいつでも殺せる」と言っていた。
俺はまた逃げなければならない。そして、まだ生き延びないといけない。
志穂、すまなかった。君の仇は、必ずとる。
だから待っていてくれ。神なんか信じちゃいないが、君のご加護なら信じられる。
だから、どうか……。
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