突然だが、お前らにさよならを言わないといけない時が来た。急に姿を消すのもなんなので、最後に俺が業界を去る理由を記しておきたい。
俺の二の腕には龍の刺青がある。この典型的な中二病をこじらせたような絵柄には、ちょいとした秘密がある。
彼女と出会ったのは静波の海水浴場だった。当時静岡で勤務していた俺は、友人とともに海へ遊びに行った。
海水浴場は我慢大会みたいに混んでいて、悠々自適に泳いで過ごそうと思っていた俺は苦笑したね。これじゃあシュノーケルを持ってきても無駄じゃないかって。
しょうがないから、一緒に来た友人三人をほったらかしにして、一人で海辺をブラブラしていた。そうしたら、向こう側からグリーンのビキニを着た若い女に声を掛けられた。「お一人ですか?」ってな。顔がタイプだったから「一人です」って嘘を吐いた。それが彼女との最初の出会いだ。
ちょいと話し込むと俺らはすぐに意気投合するわけだが、彼女は背中一面に観音様を背負っていた。「コレ、オシャレなの」なんて言ってたが明らかに嘘だろう。よく見てみると前腕には無数の創傷があった。なんとなくどんな女かは想像出来るだろ?
でもまあ、今日を過ぎたらもう会わないないんだろうなんて思っていたら、そんな事はどうでもよかった。
どういうわけか、彼女とはそれっきりにはならなかった。海辺でちょいと遊んだ程度の関係なのに、気付けばメルアドやら携帯の番号を交換し、ちょくちょく会社の愚痴やらクソくだらない冗談を交換するようになっていた。
これが腐れ縁という奴なのか、気付けば彼女と一緒に住んでいた。本当にすんなりと、知らぬ間に一緒になっていたというやつだ。なんとなく、「もしかしたらコイツと結婚する事になるのかもしれない」と思いかけた時、俺は彼女の仕事を知ってしまう。
ある日彼女から意味不明なメールが届いた。「リナさん今日替わってもらえないっすか?」なんていう文面だったが、彼女の名前はリナじゃない。誰だアンタ? 彼女に訊いてみたところ、友人のメールを間違えて俺に転送してしまったらしい。
薄ら分かっていた事だったが、彼女は夜のバイトをやっていた。俺と一緒になる前からだ。まあ、なんとなく察していたよ。それは夜伽のテクニックやらベッドでの立ち居振る舞いを見ていればなんとなく分かる。普通の人がこんなに慣れているわけねえってな。
この件を訊いたら彼女は涙ながらに謝罪してきたが、俺にとってはそんな事はどうでも良かった。別に彼女が人殺しだったわけじゃない。背中の観音様を鑑みたら、そっちの人である確率の方が高かったはずだからな。俺は結局彼女を受け入れた。
彼女の仕事をすんなりと受け入れられた背景には、俺自身の心境の変化もある。俺にはある渇望が芽生え出していた。
当時は毎日クソみたいな上司から罵倒を喰らい、人生を否定されて激務に生きるのが嫌になってきていた。俺が生きている意味とは何なのだろう? 俺は何が楽しくてこんなクソみたいな人生を生きているのだろう? そんな自問自答と常に闘っていた。そういう意味では、彼女がいた事は俺が現世に留まるだけの動機を与えてくれていた事は間違いない。
大学卒業を機にボクシングを引退し、人生の目標を失った俺は生きる意味まで見失ってしまっていた。命懸けのやりとりを潜り抜けた俺は、普通の社会人として超優秀になれるはずだった。でも、現実はそんなに甘くなかった。
どこの世界でも、結局はハングリーな奴が強い。燃え尽き症候群の俺には、大して好きでもない仕事に没頭するだけのモチベーションは無かった。よって俺は無能だった。たまにやる気を出して営業ノルマを達成する時もあったが、それも尻を叩かれて奮起した時だけだ。恒常的な情熱はもう残っていなかった。
色んな意味でボロボロだった。毎日会社に行っては激務と罵倒に曝され、ズタズタにされた自尊心はもう治癒する事はない。「どうせお前なんか弱いんだろ」と年上の社員に挑発されては、悔しさに歯噛みして血の味が口の中に広がった。仕事どころか人生というものに愛想が尽きてしまった俺は、いつ死んでもおかしくない状態だったと思う。彼女とは仕事の件から別居していたが、それも精神的にこたえていたらしい。
ある日、俺は過労と精神的ストレスで40度を超える熱を出した。全身は痙攣し、やけつくような喉は水すらも受け付けない。まともに歩く事も出来ず、這いながらでしか移動出来なくなった俺は死を覚悟していた。
もはや助けを呼ぶ事も出来ず、仰向けになった俺は「ようやく楽になれるんだ」ぐらいの心境だった。それだけ生きる事にうんざりしていたし、これ以上醜態を曝したくなかった。誰よりも、自分自身に対して。
朦朧とする意識の中、家のチャイムが鳴った。耳は聴こえていたが、身体は動かない。か細い声で何か言っていたが、その内容は不明だ。しばらくすると、誰かが玄関を開けて入って来た。合鍵を持っているのは彼女だけだ。だから誰が来たのかはすぐに分かった。
家に入るなり、彼女は俺に駆け寄った。何を言ってるのかはサッパリ分かりゃあしなかったが、とりあえず助けてくれているらしいという事だけは分かった。彼女が助けに来てくれたという嬉しさと、「死に損なった」という変な後悔がないまぜになって不思議な気分だった。
彼女の懸命な看護と入院生活と医者からの苦言とよく分からない投薬治療を経て復活した俺は、早々に会社を辞める事にした。体が心配だったからではなく、もう一度ボクシングに復帰するためだ。
俺は命を大事に路線で生きるために競技を引退してサラリーマンになったわけだが、結局のところサラリーマンだって命懸けだったわけだ。なんて甘ちゃんだったんだと自分に呆れながらも、どうせ死ぬならリングで闘って死にたいと思った。
彼女のもとを去る時、プライドの高い俺はガラにもなく頭を下げた。申し訳ないと。自分勝手な人間ですまなかったと。
一発ぐらい殴られるかと思ったが、彼女は「あなたがそう生きたいのなら、後悔のないように精一杯生きて」と言ってくれた。九九もロクに出来ないバカ女だったのに、彼女は俺よりも遥かに大人だった。
これで最後という日、俺は一糸まとわぬ彼女の身体をきつく抱きしめた。この温かさを二度と忘れまいと。彼女の腕が俺の身体を抱きしめ、創傷が温かくザラザラとした感触だったのを憶えている。それは今もハッキリと憶えている。
静岡を去る時、彼女の番号もメールアドレスも削除した。そうしないといつまでも振り返ってしまいそうで情けなかった。こうして、俺は二度と彼女に話しかける事が出来なくなった。
そして時は経ち、俺はどういう風の吹き回しか、小説を書くようになっていた。最初に書いた小説は「紅い雨、晴れてのち虹」だ。アレにはちょっとした実話が入っている。
前述の通り俺の二の腕には龍の刺青がある。その龍の下には、彼女の名前が隠れている。そして彼女の身体にも俺の名前が刻まれている。その設定を変形させてヒロインのエピソードに付け加えた。
なんて女々しい。だけど、俺には明らかに未練があったし、彼女のもとを去った事が正しかったのかいまだに分からない。だから結局そうする事しか出来なかった。彼女のバイトは上京後もまだ続いていたし、もう彼女の身体はボロボロかもしれない。
それでも女々しい俺は近寄ってくる女――しかも真面目でまともな淑女ばかりだ――を軒並み回避し、小説に俺と彼女しか分からない超ミクロハイコンテクストな符牒を入れ込んでいた。意味分からないと言われそうだが、要は俺ら二人でしか通じ合わない言葉を入れ込んだという事だ。相手は俺が執筆を始めた事も知らないし、ましてや俺の著作を読む確率なんて天文学的な確率しかないっていうのにな。バカだろ? 嗤ってくれよ。
でもなあ、奇蹟っていうのは起こるもんなんだな。
ある日、俺はどこかから彼女に呼ばれた気がした。彼女の源氏名は憶えていたので、その名前を当時彼女が在籍していた店の名前と一緒に検索してみた。そうしたら、なんと彼女のブログが出て来た。しかも、その日の記事にはこうあった。
「もう顔も思い出せない。もう声も思い出せない。それでもわたしは、あなたを求めている」
あれから随分と時が経った。当時はピチピチのティーンズで鳴らしていた彼女も、今では年をごまかしている。この俺自身も、東京に行く前は威勢のいい事を言ってたくせにまたボロボロになっている。バカだ。俺らは、揃いも揃ってバカだ。バカだバカだバカだ。
でも、もう一度彼女の声が聞きたくなった。
店のオーナーも、まさか女の子の元カレが電話してくるなんて思っちゃいなかっただろう。こんな迷惑な電話を取り次いでくれた彼の男気には敬服を禁じえない。
あんだけ「もう会えない」と涙を流したにも関わらず、俺達はアッサリと再会した。実のところ、彼女は俺の存在にも気付いていたし、月狂四郎の正体が俺だという事も理解していたらしい。相変わらず九九が出来ないバカのままだったけど、時々この女は寒気がするくらい鋭い事がある。
俺が密かに掲げていた目標――それは彼女に俺の小説を読んでもらう事だった。それが叶った今、俺の中にはもう渇望も未練も何も残っちゃいない。希望を手にした時、人が愛と呼ぶものを手にした時、俺は何も書けなくなった。
まあ、おそらくこれから色々と苦労するんだろう。あの観音様はいまだに彼女の背中にデデンと鎮座しているし、両親が彼女との結婚をすんなり受け入れるとは到底思えない。
だけど、それが俺の人生なんだろう。俺はなんだかんだ彼女の事が好きだったわけで、何年経ってもそれは変わりゃあしなかった。それがすべてだろ?
だから、みんなとはここでさよならだ。
俺は金持ちにはなれなかったけど、有名にもなれなかったけど、つまるところ小さな愛は手に入れる事が出来た。それが出来ただけ、もう満足だ。
今まで俺を応援してくれたみんな、本当にありがとう。
俺はお前らの前から消えるけど、いつも遠くから見守っているよ。
名残惜しいけど、これで俺はペンでも拳でも闘わない。
さようなら。
……さようなら。
全部嘘だバカ野郎(笑)。 まるく堂さんがブログの最終回をどうするかなんて記事を書いていたから、ちょいとヘリベマルヲ氏風に嘘記事を書いてみたくなっただけさ。彼にはバズーカで撃たれるんじゃねえかと死ぬほどビビっているさ。まあこれも芸として認めてくれるだろう、彼なら。
それじゃあまたな全世界。
俺の引退を喜んでいた奴は残念だったな。お前が嫌になるくらい目の前をブンブン蝿みたいに飛びまわってやるさ。
アッハッハ。
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