馳星周「煉獄の使徒」書評
- 2022/06/05
- 00:31
馳星周の「煉獄の使徒」を読了しました。
本著を読み始めたきっかけは書店でたまたま見つけたからなのですが、「最凶」「最長」のキャッチコピーもさる事ながら、その視覚的な本が放ついかつさに惹かれて即購入しました。馳星周の作品にハズレなどあるはずがない。

計1,600ページほどある大長編ですが、長さはまったく感じず、本当に夢中になって読みました。
はじめにあらすじを紹介します。
政治闘争に敗れて弁護士界を去った幸田敏一は、宗教団体、真言(マントラ)の法で侍従長として教祖を支えています。侍従長は政府で言うなら官房長官的な立場で教団の勢力拡大に努める人でしょうか。
教祖は十文字源皇(じゅうもんじげんこう)――小規模な詐欺罪の前科があるペテン師ですが、ここぞという時のカリスマ性だけはすさまじく、色々な宗教の「いいとこどり」をした真言の法は急激に勢力を拡大していきます。
幸田にはかつての正義に燃える弁護士の面影は無く、なるべく自分の手を汚さずに不法行為も辞さず、急進的な教団の勢力拡大を目指していきます。
そんな折、教団を糾弾する人権派弁護士、水書剛(みずがき つよし)が幸田達の前に立ちはだかります。かつて幸田に憧れて弁護士となった水書は、教団を危機に陥れます。
十文字源皇は幸田達に命じました――「水書の魂を来世に転生させろ」と。
平たく言えば、殺せという意味です。
当初は直前で姿を消すはずの幸田でしたが、十文字に先手を打たれ、水書弁護士暗殺の部隊へ強制的に加入させられます。
地方の一軒家。周囲はのどかな田園。悲鳴は聞こえない。幸田達は水書弁護士一家を殺害してしまいます。そして、幸田自身は水書弁護士の赤ん坊を手にかけてしまいます。
死体を遺棄すべく走り去る車、その姿を闇夜に潜んだ公安刑事の児玉弘樹(こだま ひろき)は撮影しており、「金づる」となる幸田へ近付く事にしました。
不良警官に脅される幸田。「儀式」に使う覚醒剤でおかしくなっていく十文字。教団内で頭角を現す狂信者達の暴走。警察社会の暗闘。教団の作る覚醒剤を捌くヤクザ。さまざまなドス黒さが入り混じり、平和な日々が過ぎていく日本へと暗い影を落としていきます。
そして地下鉄に放たれる日を待つサリン――日本で前代未聞の「聖戦」がはじまる。
……といったお話です。
かなりの人が気付いているでしょうし、後書きでも触れられているのでいちいち伏せる気も無いのですけど、本作はオウム真理教の事件がモデルになっています。
誰が見ても十文字源皇は麻原彰晃ですし、水書弁護士の殺人については坂本弁護士の事件を思い出さずにはいられません。
しかも本作はハードカバー版は2009年に出ているそうで、まだ本家の麻原彰晃が死刑執行されていなかっただけに、当時は著者側にもものすごい勇気が必要だったのではないでしょうか?
現に本著から伝わって来る熱量はとんでもなく、1,600ページあるとはいえ、長さをまったく気にさせず、ページをめくる手が止まりませんでした。
本著の魅力としては「いつもの馳星周」である警察社会の暗闘やノワールな人達のえげつない闘いがあるのですが、それ以上にカルトがいかにカルトへと変貌してしまうのかというのをものすごく理論立てて理解出来た気がするのです。
日本ではクリスマスとかハロウィンが大好きな割に、宗教に対する目はあまり温かくないというか、どちらかというと「あまり関わりたくないもの」として見られている印象があります。
そのような流れにオウムの地下鉄サリン事件があると思うのですが、そういった話があると、あまりにも私達が日頃感じているリアリティと乖離があり過ぎて、どこか遠くの国で起こっている戦争のように感じられる時があります。一種の逃避ですね。
これは後書きにも書いてあったのですが、馳星周はこういったむごい事が現実として自分の近くで起こっていても、それが自分に対して直接的な害を与えないと「どうしてこんなにひどい事が出来るんでしょうね」とまったく自分の世界から切り離して考えてしまう世間や世相に対して、痛烈なメッセージを与えようとしたようにも見えたのです――「見ろ!」と。
まあ、普通の人は嫌なものは見たくないし、出来たら楽しいものだけ見て生きていければいいと思うものでしょう。私だってそういった気持ちはいくらかあります。
ですが本作はそのような甘ったるさは断固として許容せず、これは自分達の世界で実際に起こっている事であり、油断をすれば私達一人一人ですらその一部になる危険性があるという真実を作品を通じて突きつけられている気がするのです。
宗教は悪く無いのです。宗教の理念を果たすために、暴力を解決策に選んだり、策謀を巡らして誰かを傷つけたり貶めたりする事がまずいのです。そういった側面は宗教に限らずいくらでもあります。ゆえに真言の法は日本の縮図であり、私達一人一人に投影出来るカリカチュアの一形態でもあるのです。
前述の通り、本作では何度かこの教団が日本の縮図のように描かれていましたが、実生活で私達も権力に対しておもねるような事をしたり、明らかに悪と分かっている事が目の前で起こっていてもあえて目を瞑ったりする事があります。自分がひどい目に遭うかもしれないからです。
目の前の悪に対して寛容になってしまう事はサリンを撒こうとしている狂人だろうが、明らかに女子高生に痴漢をしている変態でも本質的には変わりません。問題は私達一人一人がそれを見過ごさず、勇気を持って止める事が出来るのか、というところにあります。
また、それを止める際にも正義の鉄槌の下し方を選ばねばなりません。
ウクライナを侵攻している某国も自分の正義に基づいて破壊活動を行っています。彼らにとってはそれが正義なのです。
――と、だいぶ話は飛躍しましたが、本作では天然か計算かは分かりませんが、あえて警察社会の暗闘や宗教団体で起こる内紛を対比させる事によって、人間社会の抱える本質的な問題は変わらず、私達はそれらに逃げずに取り組まないといけないと言われているようにも感じられるのです。
後半は変なベクトルで熱を帯びた筆致になってしまいましたが、本作は単なるノワール小説を超えて、反面教師的に「では正義とは何なのか?」と読者の一人一人に語りかけている小説でもあるかと思います。
そのボリュームには圧倒されるでしょうが、本作はたとえ何世紀経ったとしても人の心に響く普遍性を包含しているかと思います。あえて言います。逃げずに読んで下さい。
こっちもよろしく!
本著を読み始めたきっかけは書店でたまたま見つけたからなのですが、「最凶」「最長」のキャッチコピーもさる事ながら、その視覚的な本が放ついかつさに惹かれて即購入しました。馳星周の作品にハズレなどあるはずがない。

計1,600ページほどある大長編ですが、長さはまったく感じず、本当に夢中になって読みました。
はじめにあらすじを紹介します。
政治闘争に敗れて弁護士界を去った幸田敏一は、宗教団体、真言(マントラ)の法で侍従長として教祖を支えています。侍従長は政府で言うなら官房長官的な立場で教団の勢力拡大に努める人でしょうか。
教祖は十文字源皇(じゅうもんじげんこう)――小規模な詐欺罪の前科があるペテン師ですが、ここぞという時のカリスマ性だけはすさまじく、色々な宗教の「いいとこどり」をした真言の法は急激に勢力を拡大していきます。
幸田にはかつての正義に燃える弁護士の面影は無く、なるべく自分の手を汚さずに不法行為も辞さず、急進的な教団の勢力拡大を目指していきます。
そんな折、教団を糾弾する人権派弁護士、水書剛(みずがき つよし)が幸田達の前に立ちはだかります。かつて幸田に憧れて弁護士となった水書は、教団を危機に陥れます。
十文字源皇は幸田達に命じました――「水書の魂を来世に転生させろ」と。
平たく言えば、殺せという意味です。
当初は直前で姿を消すはずの幸田でしたが、十文字に先手を打たれ、水書弁護士暗殺の部隊へ強制的に加入させられます。
地方の一軒家。周囲はのどかな田園。悲鳴は聞こえない。幸田達は水書弁護士一家を殺害してしまいます。そして、幸田自身は水書弁護士の赤ん坊を手にかけてしまいます。
死体を遺棄すべく走り去る車、その姿を闇夜に潜んだ公安刑事の児玉弘樹(こだま ひろき)は撮影しており、「金づる」となる幸田へ近付く事にしました。
不良警官に脅される幸田。「儀式」に使う覚醒剤でおかしくなっていく十文字。教団内で頭角を現す狂信者達の暴走。警察社会の暗闘。教団の作る覚醒剤を捌くヤクザ。さまざまなドス黒さが入り混じり、平和な日々が過ぎていく日本へと暗い影を落としていきます。
そして地下鉄に放たれる日を待つサリン――日本で前代未聞の「聖戦」がはじまる。
……といったお話です。
かなりの人が気付いているでしょうし、後書きでも触れられているのでいちいち伏せる気も無いのですけど、本作はオウム真理教の事件がモデルになっています。
誰が見ても十文字源皇は麻原彰晃ですし、水書弁護士の殺人については坂本弁護士の事件を思い出さずにはいられません。
しかも本作はハードカバー版は2009年に出ているそうで、まだ本家の麻原彰晃が死刑執行されていなかっただけに、当時は著者側にもものすごい勇気が必要だったのではないでしょうか?
現に本著から伝わって来る熱量はとんでもなく、1,600ページあるとはいえ、長さをまったく気にさせず、ページをめくる手が止まりませんでした。
本著の魅力としては「いつもの馳星周」である警察社会の暗闘やノワールな人達のえげつない闘いがあるのですが、それ以上にカルトがいかにカルトへと変貌してしまうのかというのをものすごく理論立てて理解出来た気がするのです。
日本ではクリスマスとかハロウィンが大好きな割に、宗教に対する目はあまり温かくないというか、どちらかというと「あまり関わりたくないもの」として見られている印象があります。
そのような流れにオウムの地下鉄サリン事件があると思うのですが、そういった話があると、あまりにも私達が日頃感じているリアリティと乖離があり過ぎて、どこか遠くの国で起こっている戦争のように感じられる時があります。一種の逃避ですね。
これは後書きにも書いてあったのですが、馳星周はこういったむごい事が現実として自分の近くで起こっていても、それが自分に対して直接的な害を与えないと「どうしてこんなにひどい事が出来るんでしょうね」とまったく自分の世界から切り離して考えてしまう世間や世相に対して、痛烈なメッセージを与えようとしたようにも見えたのです――「見ろ!」と。
まあ、普通の人は嫌なものは見たくないし、出来たら楽しいものだけ見て生きていければいいと思うものでしょう。私だってそういった気持ちはいくらかあります。
ですが本作はそのような甘ったるさは断固として許容せず、これは自分達の世界で実際に起こっている事であり、油断をすれば私達一人一人ですらその一部になる危険性があるという真実を作品を通じて突きつけられている気がするのです。
宗教は悪く無いのです。宗教の理念を果たすために、暴力を解決策に選んだり、策謀を巡らして誰かを傷つけたり貶めたりする事がまずいのです。そういった側面は宗教に限らずいくらでもあります。ゆえに真言の法は日本の縮図であり、私達一人一人に投影出来るカリカチュアの一形態でもあるのです。
前述の通り、本作では何度かこの教団が日本の縮図のように描かれていましたが、実生活で私達も権力に対しておもねるような事をしたり、明らかに悪と分かっている事が目の前で起こっていてもあえて目を瞑ったりする事があります。自分がひどい目に遭うかもしれないからです。
目の前の悪に対して寛容になってしまう事はサリンを撒こうとしている狂人だろうが、明らかに女子高生に痴漢をしている変態でも本質的には変わりません。問題は私達一人一人がそれを見過ごさず、勇気を持って止める事が出来るのか、というところにあります。
また、それを止める際にも正義の鉄槌の下し方を選ばねばなりません。
ウクライナを侵攻している某国も自分の正義に基づいて破壊活動を行っています。彼らにとってはそれが正義なのです。
――と、だいぶ話は飛躍しましたが、本作では天然か計算かは分かりませんが、あえて警察社会の暗闘や宗教団体で起こる内紛を対比させる事によって、人間社会の抱える本質的な問題は変わらず、私達はそれらに逃げずに取り組まないといけないと言われているようにも感じられるのです。
後半は変なベクトルで熱を帯びた筆致になってしまいましたが、本作は単なるノワール小説を超えて、反面教師的に「では正義とは何なのか?」と読者の一人一人に語りかけている小説でもあるかと思います。
そのボリュームには圧倒されるでしょうが、本作はたとえ何世紀経ったとしても人の心に響く普遍性を包含しているかと思います。あえて言います。逃げずに読んで下さい。
こっちもよろしく!
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