ヴィーナスの腕と余白の話
- 2020/05/24
- 00:20
まだ激務に超が付いていないレベルなので、WOWOWで録画した「ダイナー」を再度観ました。やっぱり面白いというか、ハンバーガーがマジでおいしそうなのでぜひ食べたいな~なんて思いながら見ておりました。
小説版とはちょっと結末が変わっていて、映画の方が読者の希望的観測をいい意味で叶えてくれている部分があったというか、それこそ王木氏の言う「あったかもしれない未来」というのをあえてフィクション→フィクションという手法で実現しているのかなと。
その「あったかもしれない未来」ってある意味色んなところで表現されていて、つい最近リメイクされたFF7なんてそれが一番顕著なんじゃねーかというか、エアリスの未来については結構な人があったかもしれない未来について思いを馳せたりしたのかな、なんて思ったりもしたのです。だからエアリスの違う未来を描いた二次創作が多数出てくるのも必然なのかなと。
物語の余白というか、ミロのヴィーナスが「持っていたはず」の両腕のように、あるべきものが無い事によって、かえって読者がそれを想像するというか、いかようにでも取れる部分っていうのはやはり創作物の魅力であるなと。
「PCM」の表紙なんかは元の表紙画はモデルの顔までしっかり映っていたのですが、あえてモデルの鼻から上はトリミングで見切れているようにしています。というのも、そうやった方が受け手にとって一番いい女の顔を勝手に脳内補完してくれるからです。(ちなみにモデルの女性自体も非常に美しく魅力的な方でした。悪しからず)
そう考えるとあえて書かない部分の重要性ってすごくあるなとも思うのです。
たとえばショックな出来事があった時にはキャラの心情をバカみたいにずらずら長く書くのではなく、ちょっとした仕草だけを書いて読者がそれを察するように仕向ける事も必要だなと。そればっかりになってもいけないのでしょうが、書かなくてもいい事をあえて書かない勇気も表現には必要だよねと。
そのような事を思いました。もちろん、圧倒的な描写で読者を引き込む事も一つの魅力ではあるのですが、サッと済ませるところはあんまりくどく書かない事も大事だなと。その上でこってりした表現が役立つんでしょうね。
長い独り言です。
小説版とはちょっと結末が変わっていて、映画の方が読者の希望的観測をいい意味で叶えてくれている部分があったというか、それこそ王木氏の言う「あったかもしれない未来」というのをあえてフィクション→フィクションという手法で実現しているのかなと。
その「あったかもしれない未来」ってある意味色んなところで表現されていて、つい最近リメイクされたFF7なんてそれが一番顕著なんじゃねーかというか、エアリスの未来については結構な人があったかもしれない未来について思いを馳せたりしたのかな、なんて思ったりもしたのです。だからエアリスの違う未来を描いた二次創作が多数出てくるのも必然なのかなと。
物語の余白というか、ミロのヴィーナスが「持っていたはず」の両腕のように、あるべきものが無い事によって、かえって読者がそれを想像するというか、いかようにでも取れる部分っていうのはやはり創作物の魅力であるなと。
「PCM」の表紙なんかは元の表紙画はモデルの顔までしっかり映っていたのですが、あえてモデルの鼻から上はトリミングで見切れているようにしています。というのも、そうやった方が受け手にとって一番いい女の顔を勝手に脳内補完してくれるからです。(ちなみにモデルの女性自体も非常に美しく魅力的な方でした。悪しからず)
そう考えるとあえて書かない部分の重要性ってすごくあるなとも思うのです。
たとえばショックな出来事があった時にはキャラの心情をバカみたいにずらずら長く書くのではなく、ちょっとした仕草だけを書いて読者がそれを察するように仕向ける事も必要だなと。そればっかりになってもいけないのでしょうが、書かなくてもいい事をあえて書かない勇気も表現には必要だよねと。
そのような事を思いました。もちろん、圧倒的な描写で読者を引き込む事も一つの魅力ではあるのですが、サッと済ませるところはあんまりくどく書かない事も大事だなと。その上でこってりした表現が役立つんでしょうね。
長い独り言です。
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