エロ同人マンガは、実はいいとこ突いている
- 2019/08/27
- 17:00
これも時代なのか、大してアダルトなサイトを覗いていなくてもエロ同人マンガの広告が目に付くようになってきました。
昔はこういう世界は完全にアングラ扱いだったと記憶していますが、今では普通のサイトを見ていても〇〇JKみたいな話が出てくる気がいたします。
ほとんどはただ卑猥なだけでどうしようもない作品なのですが(かといって高尚な作品でもそれはそれで困るのですが)よくよく見ていると結構文学的というか、小説にしたら面白そうな題材が沢山あるのも事実です。
一番有名なのは土砂降りのバス停にJKがいて、雨に濡れてスケスケになった制服を見たオッサンが興奮して彼女を犯してしまうという話のような気がしますが、たとえばこの作品だって文学にする事は可能です。
さすがにレイプをそのまま描写するとポルノ小説になってしまうかもしれませんが、たとえば濡れて透けた制服を見て悶々とするオッサンの心理をひたすら書き続けるだけで一つの作品になります。
私はこのような発想の過程から芥川龍之助平名義で「華」という作品を書きました。
制服のリボンを華に喩えて、本家芥川龍之介の「鼻」とかけた作品にしたわけです。本質的に書いているものは同じなわけですが、これだけで一つの作品になる。
ここであえてエロ同人マンガと文学を比較するなら、土砂降りのバス停といういわばクローズドサークルにオッサンと女子高生を放り込むだけで、無数の行間が発生し、それはその行間を扱うものによっていかようにも読み替える事が出来るという事です。
広告に出てくるようなエロ同人マンガはここの扱い方が上手な気がします。
そこでオッサンが色々な妄想を繰り広げて終われば文学。本当にヤっちまえばポルノというところでしょうか。実は大差無いのです。
このように同じ題材を扱っていても視点を変えるだけでまったく違うものが出来上がる事。そしてその可能性は無数に自分の見えるところに転がっている事を忘れてはいけません。
誰でも思い付いたかもしれません。
でも、結局のところそれまでに誰も思い付かなかったからそれは存在していなかったのです。
このように路傍の石でも磨いて売りつける意地汚さは創作に不可欠です。
新しいものをただ漫然と追っていてもいつかネタは尽きます。
そうなる前に、自分の周囲にいくらでも新しさは見つけられる事に気付きましょう。
昔はこういう世界は完全にアングラ扱いだったと記憶していますが、今では普通のサイトを見ていても〇〇JKみたいな話が出てくる気がいたします。
ほとんどはただ卑猥なだけでどうしようもない作品なのですが(かといって高尚な作品でもそれはそれで困るのですが)よくよく見ていると結構文学的というか、小説にしたら面白そうな題材が沢山あるのも事実です。
一番有名なのは土砂降りのバス停にJKがいて、雨に濡れてスケスケになった制服を見たオッサンが興奮して彼女を犯してしまうという話のような気がしますが、たとえばこの作品だって文学にする事は可能です。
さすがにレイプをそのまま描写するとポルノ小説になってしまうかもしれませんが、たとえば濡れて透けた制服を見て悶々とするオッサンの心理をひたすら書き続けるだけで一つの作品になります。
私はこのような発想の過程から芥川龍之助平名義で「華」という作品を書きました。
制服のリボンを華に喩えて、本家芥川龍之介の「鼻」とかけた作品にしたわけです。本質的に書いているものは同じなわけですが、これだけで一つの作品になる。
ここであえてエロ同人マンガと文学を比較するなら、土砂降りのバス停といういわばクローズドサークルにオッサンと女子高生を放り込むだけで、無数の行間が発生し、それはその行間を扱うものによっていかようにも読み替える事が出来るという事です。
広告に出てくるようなエロ同人マンガはここの扱い方が上手な気がします。
そこでオッサンが色々な妄想を繰り広げて終われば文学。本当にヤっちまえばポルノというところでしょうか。実は大差無いのです。
このように同じ題材を扱っていても視点を変えるだけでまったく違うものが出来上がる事。そしてその可能性は無数に自分の見えるところに転がっている事を忘れてはいけません。
誰でも思い付いたかもしれません。
でも、結局のところそれまでに誰も思い付かなかったからそれは存在していなかったのです。
このように路傍の石でも磨いて売りつける意地汚さは創作に不可欠です。
新しいものをただ漫然と追っていてもいつかネタは尽きます。
そうなる前に、自分の周囲にいくらでも新しさは見つけられる事に気付きましょう。
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