嫌な星新一賞
- 2018/04/23
- 14:30
「もう、働きたくねえよ」
長生優(ながお まさる)は公園のベンチでうなだれていた。
目の前では子連れの母親が楽しそうにママ友と談笑している。俺だってあんなに優雅な生活を送りたい。だけど、彼を取り囲む事情がそれを許さないのだ。
手元のタブレットを見てげんなりする。午後はまた何件も得意先に顔を出さないといけない。脳内で営業の絵図を思い描くが、まったく売れる気がしない。ナノ通信が小学生の間ですら主流となった今、金を払って電話会社と契約したいなんていう変わり者がどれだけいるというのか。
だが売ってこなければ年下の上司にドヤされる。最近は鬱病の診断もナノマシンが適切に行い、早期発見の上で投薬のない解決策を提示してくれる。
だから休職になる人間も圧倒的に少なくなったし、先日に長生が言った「心が痛い」という理由での休暇は認められない。それは適切に組まれたプログラムで早々に治療され、もう大丈夫だというお墨付きを受けてしまったのだ。実際のところ、ただ仕事に行きたくなかったので根本的な病は少しも改善されていないのだが。
「日本ナノ医療学会め……」
とりあえずナノ医療を国民レベルにまで発展させた公益法人を毒づく。だが、それで問題が消えてくれるわけではない。今日契約を取り損ねたら自身の首が危ない。あと30年支払わないといけない住宅ローンが残っている。妻は今頃になって「美に目覚めた」と言って美容品を買いあさり、セル治療で毎日需要の無い肌を無駄に瑞々しくしている。
ある日から引き籠った息子は一向に部屋から出てくる気配もなく、昨日で引き籠り暦が30年に達した。偉大なバンドか、貴様は。
それでも家族は家族である。長生は彼らを生きながらえさせないといけない。しかし契約も取れそうにない。さてどうするか……?
「しかたない。また助っ人を呼ぶか」
ナノ通信を繋ぐ。自身の電話を使おうとは思わない。番号をわざわざ押すのが面倒だし、そもそも相手の手元に時代遅れの電話があるかが怪しいのだ。
「どうした。金なら無いぞ」
開口一番キツい言葉が返ってくる。だが、通信に出た友人はなんだかんだ言いながらピンチの時は相談に乗ってくれる。
「助けてくれ。心が痛いんだ」
「またか。せめて心臓が痛いって言えばいいのにな」
「ナノ医療が発達してしまった今、そのネタは使えない」
「よく知ってるな、じいさんのくせに」
友人の映像が目の前に現れる。スーツ姿だから、仕事中なのかもしれない。最近は忙しいのか、それとも金の無心をされるのが嫌なのか、通信でしか相談に乗ってくれなくなった。
「もう働きたくねえよ」
「またかよお前、前にも同じ事を言ってたぞ」
「しょうがねえだろ。人間の気持ちがそんなに簡単に変わってたまるかよ」
「いやしかし諦めな。今は再生医療とナノテクノロジーが発達して人間が死ぬ間際まで元気でいられる素晴らしい時代になった。文字通り死ぬまで働け」
「電車に飛び込んだらナノ治療も不可能だと思うが」
「甘いな。そういう発想の奴が出てくるから、最近は心拍数や臭気、血圧等の情報を平時と比較して、自殺の兆候を読み取って全力で止めてくれる。首を吊ろうが、電車に飛び込もうが、今の時代に自死なんて贅沢は通用しないのさ。ナノマシンの呼応した電車のシステムが飛び込み防止のガードを壁みたいに広げて、お前は見事に跳ね返されて笑われるだけで終わるだろうよ。
「それはそれで地獄だな」
「だろう? だから晩節を汚すなよ。定年まであと少しじゃないか」
「定年を迎えたって年金暮らしが出来るわけじゃない。国民の平均寿命が伸びたせいで年金の需給はさらに後ろ倒しになるし、そんな世の中のくせに国民の数は減っている」
長生の言う通り、日本国民の平均寿命がかなり伸びたせいで、年金が需給できる年齢はさらに引き上げられていた。
「あと2年で85歳か。時が経つのは早いものだな。でも、年金制度が残っているかどうかがすでに怪しいな」
長生は昨日の国会中継で糾弾を受ける斡生(あっそう)大臣の映像を思い出していた。年金制度が崩壊寸前と野党から糾弾され、彼はこう答えた。
「仰る事は分かりますよ。でもね、そもそも国民全体で維持しないといけない年金システムをないがしろにしたのは誰ですか?
子供を作らず、個人主義を助長し、その屋台骨を崩壊させたあなたであり、私であり、そして国民ではないですか。
仮に年金システムが崩壊したところで、どうせ死ぬ直前まで働ける健康な体を持っているんだから、死ぬまで働けばいいんですよ」
野党の怒号とともに物が飛ぶ。電磁フィールドに守られた斡生大臣は「しょうがねえなコイツら」という顔でそれを眺めていた。
「死ぬまで、働くのか……」
悠々自適に余生を過ごす夢を見たのはいつ頃だったか。
妻は今も美しく、85歳を迎える彼女は20歳の頃の容姿をそのまま保っている。引き籠った息子も顔だけは良かったので、やはりイケメンのまま55歳を迎える引き籠りになった。
美しい家族。美しい家族。
……だが、何かが間違っている気がする。
思えば、普通に老いて死ぬ事が出来ることも未来から見たら贅沢な人生だったのかもしれない。今はどうしようもないが。
タブレットを見た。今日も仕事はしんどそうだ。
年下の上司の顔が過ぎる。
昔だったら、遺書に怨み節でも書いて電車に飛び込めたのに。
長生優(ながお まさる)は公園のベンチでうなだれていた。
目の前では子連れの母親が楽しそうにママ友と談笑している。俺だってあんなに優雅な生活を送りたい。だけど、彼を取り囲む事情がそれを許さないのだ。
手元のタブレットを見てげんなりする。午後はまた何件も得意先に顔を出さないといけない。脳内で営業の絵図を思い描くが、まったく売れる気がしない。ナノ通信が小学生の間ですら主流となった今、金を払って電話会社と契約したいなんていう変わり者がどれだけいるというのか。
だが売ってこなければ年下の上司にドヤされる。最近は鬱病の診断もナノマシンが適切に行い、早期発見の上で投薬のない解決策を提示してくれる。
だから休職になる人間も圧倒的に少なくなったし、先日に長生が言った「心が痛い」という理由での休暇は認められない。それは適切に組まれたプログラムで早々に治療され、もう大丈夫だというお墨付きを受けてしまったのだ。実際のところ、ただ仕事に行きたくなかったので根本的な病は少しも改善されていないのだが。
「日本ナノ医療学会め……」
とりあえずナノ医療を国民レベルにまで発展させた公益法人を毒づく。だが、それで問題が消えてくれるわけではない。今日契約を取り損ねたら自身の首が危ない。あと30年支払わないといけない住宅ローンが残っている。妻は今頃になって「美に目覚めた」と言って美容品を買いあさり、セル治療で毎日需要の無い肌を無駄に瑞々しくしている。
ある日から引き籠った息子は一向に部屋から出てくる気配もなく、昨日で引き籠り暦が30年に達した。偉大なバンドか、貴様は。
それでも家族は家族である。長生は彼らを生きながらえさせないといけない。しかし契約も取れそうにない。さてどうするか……?
「しかたない。また助っ人を呼ぶか」
ナノ通信を繋ぐ。自身の電話を使おうとは思わない。番号をわざわざ押すのが面倒だし、そもそも相手の手元に時代遅れの電話があるかが怪しいのだ。
「どうした。金なら無いぞ」
開口一番キツい言葉が返ってくる。だが、通信に出た友人はなんだかんだ言いながらピンチの時は相談に乗ってくれる。
「助けてくれ。心が痛いんだ」
「またか。せめて心臓が痛いって言えばいいのにな」
「ナノ医療が発達してしまった今、そのネタは使えない」
「よく知ってるな、じいさんのくせに」
友人の映像が目の前に現れる。スーツ姿だから、仕事中なのかもしれない。最近は忙しいのか、それとも金の無心をされるのが嫌なのか、通信でしか相談に乗ってくれなくなった。
「もう働きたくねえよ」
「またかよお前、前にも同じ事を言ってたぞ」
「しょうがねえだろ。人間の気持ちがそんなに簡単に変わってたまるかよ」
「いやしかし諦めな。今は再生医療とナノテクノロジーが発達して人間が死ぬ間際まで元気でいられる素晴らしい時代になった。文字通り死ぬまで働け」
「電車に飛び込んだらナノ治療も不可能だと思うが」
「甘いな。そういう発想の奴が出てくるから、最近は心拍数や臭気、血圧等の情報を平時と比較して、自殺の兆候を読み取って全力で止めてくれる。首を吊ろうが、電車に飛び込もうが、今の時代に自死なんて贅沢は通用しないのさ。ナノマシンの呼応した電車のシステムが飛び込み防止のガードを壁みたいに広げて、お前は見事に跳ね返されて笑われるだけで終わるだろうよ。
「それはそれで地獄だな」
「だろう? だから晩節を汚すなよ。定年まであと少しじゃないか」
「定年を迎えたって年金暮らしが出来るわけじゃない。国民の平均寿命が伸びたせいで年金の需給はさらに後ろ倒しになるし、そんな世の中のくせに国民の数は減っている」
長生の言う通り、日本国民の平均寿命がかなり伸びたせいで、年金が需給できる年齢はさらに引き上げられていた。
「あと2年で85歳か。時が経つのは早いものだな。でも、年金制度が残っているかどうかがすでに怪しいな」
長生は昨日の国会中継で糾弾を受ける斡生(あっそう)大臣の映像を思い出していた。年金制度が崩壊寸前と野党から糾弾され、彼はこう答えた。
「仰る事は分かりますよ。でもね、そもそも国民全体で維持しないといけない年金システムをないがしろにしたのは誰ですか?
子供を作らず、個人主義を助長し、その屋台骨を崩壊させたあなたであり、私であり、そして国民ではないですか。
仮に年金システムが崩壊したところで、どうせ死ぬ直前まで働ける健康な体を持っているんだから、死ぬまで働けばいいんですよ」
野党の怒号とともに物が飛ぶ。電磁フィールドに守られた斡生大臣は「しょうがねえなコイツら」という顔でそれを眺めていた。
「死ぬまで、働くのか……」
悠々自適に余生を過ごす夢を見たのはいつ頃だったか。
妻は今も美しく、85歳を迎える彼女は20歳の頃の容姿をそのまま保っている。引き籠った息子も顔だけは良かったので、やはりイケメンのまま55歳を迎える引き籠りになった。
美しい家族。美しい家族。
……だが、何かが間違っている気がする。
思えば、普通に老いて死ぬ事が出来ることも未来から見たら贅沢な人生だったのかもしれない。今はどうしようもないが。
タブレットを見た。今日も仕事はしんどそうだ。
年下の上司の顔が過ぎる。
昔だったら、遺書に怨み節でも書いて電車に飛び込めたのに。
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