嫌な短編「慈愛」
- 2018/04/12
- 03:42
長く築いた歴史というのも、終わりの時を迎えると案外あっけないものです。
目の前に揺らめく炎を見て、しみじみと思いました。
私が初めて、母親らしいことをしてあげられた瞬間なのかもしれません。
博一(ひろかず)が生まれるまで、ずいぶんと苦労をしました。
嫁いだのは二十代前半でしたが、子供がなかなかできませんでした。
不妊治療に通ったり、あちこちから本を取り寄せて我が子の誕生を心待ちにしていましたが、だからといって神様が奇蹟を起こしてくれるということもなく、幸せで、何かが足りないような違和感を抱えながら夫婦で結婚生活を送っていきました。
なにがいけないのか、さっぱり分かりませんでした。なにせ子供というのは神様の授かりもののようにしか考えていませんでしたから、どちらかというと私が何か神様に対して不敬でも働いたのではないかぐらいに思っていました。いや、どちらかというと、そう思いたかっただけなのかもしれません。
あの時はずいぶんと精神的に追い込まれていたのだと思います。
姑からは援助のラベルが付いたプレッシャーをかけられましたし、体力の無い私は閨房でのお勤めがなかなかうまくいきませんでした。さすがにどのようにすればいいのかを母親に訊くわけにもいかず、年始には必ず暗澹とした気持ちで夫の実家を来訪していました。
長きにわたる努力が実ったのか、ようやく我が子を授かることができました。どうしてそれが可能になったのかは皆目分かりません。ただ、悪阻と思しき吐き気を感じた時、自分が素直に気分を害するべきなのか、それとも歓喜するべきなのか迷ったことをよく憶えています。
名前は博一にしました。当初は私が抱える唯一の悩みということで、憂一(ゆういち)にしようかと思いましたが、それではあまりにも悪ふざけが過ぎると思いましたので、賢く、博識になって欲しいという願いを込めて博一にしました。
ようやく念願叶って我が子をその胸に抱いた時、私は確かに幸せでした。我が子を抱く腕を通してとくとくと伝わる鼓動が、聖書にも等しいくらいの安心感を与えてくれました。
しかし好事魔多しというか、それで終わっていれば十分に幸せだったはずなのに、幸せというものはいとも簡単に崩れます。
最初に、夫の浮気が発覚しました。それだけなら大したことはありませんでした。
夫のお相手は何のひねりも無く、化粧を塗りたくったホステスでした。はっきり言ってありふれた浮気です。だから、反省さえしているのなら許してあげようと思いました。
しかし、夫は私よりもその女の方を取りました。
どうして? と、訊きました。
すると、夫は泣きながら「彼女を本当に愛してしまった」と言うのです。
はじめて、夫に本気で平手打ちをしました。
結局結婚生活は何の前触れも無く、そしてあっけなく終わりを告げました。意味が分かりませんでした。あまりにもショックだったというか、現実を受け入れられない私は思わず大声で笑ってしまいました。
世の中にはこれだけ無責任なことをできる人がいたのだと。そしてそれは、よりにもよって私の夫になった人だったのです。
つまみ食いで人生を狂わせる男に未練などありませんでした。私は博一と一緒に家を出ました。
こういう話があると、大抵は貧困に苦しむものですが、私の場合は運よくまともな仕事を見つけることができたので、豊かな生活とまではいきませんでしたが、親の援助も受けながらどうにか人並みの生活はしていくことができました。
夫からは養育費が振り込まれていましたが、ある日を境にピタリと止まりました。だからといって、彼に連絡を取ることはしませんでした。その程度の人間だと確信していたからです。
博一はすくすくと大きくなってきました。
何度か父親がいないことに首をかしげるような時もありましたが、どこか空気を読んでいたのか、博一が父親について訊いてくることはありませんでした。
仕事も順調に進んだお陰で、職場でもそれなりの地位に就くことができました。そもそもの能力もあったのかもしれませんが、危機感が私を優秀にしてくれたのだと思います。
ですが、私には一つの悩みがありました。
詳述は避けますが、博一は障碍を持っていました。日常生活でそれほど困るものではありませんでしたが、皮肉なことに、大人になれば子作りに影響する障碍でした。
私が何か良からぬものを引き継がせてしまったのか。
そんな思いもありましたが、済んだことをどうこう言っても仕方がありません。ですから、伸び伸びと育ててあげようと思いました。
幸い収入はありましたし、欲しいというものは大抵買ってあげることができました。さすがにガンダムが欲しいと言われた時は困りましたが。
しばらくは幸せに暮らしていたかと思いますが、またもや運命の神というのは試練を投げかけてきました。
博一が不登校になりました。原因は学校でのイジメでした。不良生徒が博一の身体についてとても酷いことを言ったようです。
怒りに燃えた私は学校へ抗議をしました。学校からは指導を強化する旨の返事をもらいましたが、怯えきった博一はもう学校へ行こうとはしませんでした。
何もピラニアの泳いでいる川に我が子を戻す必要もありません。私は博一の意志を尊重し、彼が学校に行こうとしなくても何も言いませんでした。
博一は閉じ籠もってゲームばかりしていましたが、それが逃避でありセラピーになるのならいいのではないかとも思いました。
なにせ博一は私の生きる理由であり希望です。彼に何かあったら、私自身が生きていける自信がありませんでした。
苦肉の策ではありましたが、高校にも行こうとせず引き籠もる博一を自由にさせておきました。いつかは自立する時が来ます。それを彼が悟る日だって来るでしょう。それまでは自由を思う存分に堪能させてあげようと思いました。
いつの日か、博一が自室に鍵を付けるようになりました。理由は私が無断で部屋の掃除をするのが気に入らないからだそうです。
まあ、私だって彼が密室で何をお楽しみになっているかぐらい察しています。彼しか入れない部屋なのに、パソコンには鍵がかけられています。きっとそのメモリの中には艶やかな映像がたくさん詰まっているのでしょう。ですが、それは若い男子としては健全なことです。仮に見つけたって怒りやしません。
そいういったわけで、私は博一の「秘密基地」を容認していました。秘密基地ぐらいならそれほど問題ではありません。本当の問題はもっと深刻でした。
博一は何年経っても部屋から出て行こうとはしませんでした。買い物に行く時は外出します。ですが、社会的な交流というか、学校や職場に行こうという気概はいつになっても見せないのです。これはまずいとは思いましたが、彼を放任したのは今日にはじまったことではありません。
いつこの部屋を出るつもりなの?
その疑問は晴れないまま、時だけが虚しく過ぎていきました。
ある日、博一の部屋から妙な物音がしました。
博一はついさっき買い物に行ったばかりです。人がいるはずなどありません。
まさか泥棒が……?
私は怖さを抱えながらも、包丁で武装して博一の部屋を覗きました。鍵はかかっていませんでした。ますます泥棒の可能性を疑いました。彼は迂闊なところがあったから、SNSか何かで外出中と分かるような書き込みをしたのかもしれません。実際にそういう人を狙う空き巣がいると聞いたことがあります。
カーテンを乱暴に開くと、そこにはなぜか小学生ぐらいの少女がいました。凶悪な犯罪者を想定していたせいか、あまりの落差に拍子抜けしました。
ですが、一瞬の時間差を置いてその異様さに気付きました。まず、少女は何も着ていません。全身には擦過傷のような傷痕があって、その目には怯えが浮かんでいました。
まさかという言葉が脳裏をよぎりましたが、「あなたは誰?」と訊きました。少女からしたら、これほど愚かしく腹立たしい質問は無かったのかもしれません。
少女は名乗る代わりに「助けて」と言いました。「ああ、神様」という言葉とともに、やっぱりという失望感が同時に沸いたのを憶えています。
少女は、端的に言えば博一に拉致監禁されたのです。身勝手かもしれませんが、少女の心配よりも今までに築き上げた生活や社会的な地位が崩れ落ちていく音が聞こえるようでした。
気が遠くなったところで、後ろから「何やってるんだ」という怒鳴り声が聞こえてきました。もちろん、博一のものです。「何やってるんだ」なんて、それはこっちの台詞というものです。
思えば、私は何を間違えたのでしょうか?
博一をすぐに学校へ戻さなかったことでしょうか?
それとも、イジメが発覚した時点で早々に転校という手段を取らなかったことでしょうか?
闇の向こうで、かつて夫だった男の顔が見えました。まるで、私を嘲弄するかのように。
その時に思い出しました。
この子も、あの男の血を引いていたのだと。
包丁を、少女の胸に突き立てました。少女は、自分の身に起こったことが信じられないという顔でゆっくりと崩れ落ちていきました。
博一は、呆然として血の滴る包丁を見ていました。彼はまだ私がしたことの意味が分かっていないようでした。でも、それも仕方の無いことなのかもしれません。彼はまだ子供なのですから。
罪を正してあげることも一つの愛だったのだと思います。その点では夫の浮気をうまく処理できていなかった時点で、私の失敗は確定していたのです。その無責任さが、息子にまで道を誤らせてしまいました。
少女を拉致した時点で彼が人並みの生活を送っていくことは不可能です。それはいつか発見され、また孤独で居場所の無い世界が待っている。
人々は石を投げて、私達をその世界から排斥しようとする。
それなら、私が彼を寂しさも悲しみも無い世界に連れていってあげようと思いました。
凍りついたままの博一に歩み寄ると、博一の胸を一突きしました。あれだけのことをしておきながら、自分がどうしてこのような目に遭わないといけないのか分からないという眼をしていました。あの人もこの子も、謝っても済まされないことがあるのを学ばないまま大人になってしまったようです。
それならば、私が博一を空の上まで引率していくしかありません。
死体二つが転がる部屋に、火を放ったままこの手記を書いています。それは間もなく燃えてなくなってしまうでしょう。
でも、明らかに無駄な行為にもどこか救いがあるというものです。
あちらへ行ったら、しっかりと博一を叱ってあげよう。
炎に包まれた部屋を見て、私はそう誓いました。
【了】
スポンサーサイト