新作の断片
- 2017/06/28
- 12:21
ある日、私はいつものように野営地の哨戒をしていました。
一人で不良品のトカレフを持ち、周囲の音に耳を澄ませていました。今日の月は紅く光ってとても美しい。
ですが、この日は何か嫌な重みというか、空気を通じて伝わる何かがありました。私にしてはずいぶんと知覚が鋭敏になっていたのだと思います。土が踏み鳴らされるような音が、ゆっくりとゆっくりと近付いて来るような気がしました。この日は湿気が多く、少しでも動くとすぐに汗が吹き出ます。脱水症状には気を付けないといけないなと思っていると、次第に何かを押す程度だった音は、重みを増した風に変化して、私の方へと近付いてきます。
息を呑み、周囲を見渡しました。マグライトの筋は見えません。
どうやら彼らが近くまで来ているようです。いよいよ私も殉職か。闘う前からそのような事を思っていました。
足跡はどんどん近付いて来ます。ぞれは前から来るようにも聞こえたし、後ろから聞こえるような気もしました。鼓動は徐々に早くなり、あれだけ死にたがっていたくせに胸が苦しくなって、汗が滲んできました。
音がふいに止み、自分の臆病ぶりに悪態を吐こうとしたその瞬間、前触れもなく後ろから羽交い絞めにされました。息は止まり、心臓は波打ち、意識に厚い膜がかかったような気がしました。
嗚呼、とうとう私も殉死するのか。そう思うと、諦念と往生際の悪い生への執着心が同時に沸き起こりました。矛盾する感情はこの胸でせめぎ合い、吐き気がこみ上げてきました。殺すならさっさと殺してほしいのです。喰うのなら早く喰ってほしいのです。なぜ楽にしてくれないのですか。
そんな怒りすら感じていると、私を捕らえていた手はふいに力を緩めました。私は勢いよく地面に転がり、土塗れになって背後を見上げました。
「ギャッハッハ、隙だらけだよ、お前は」
視線の先では、一緒に暮らしている仲間が手を叩いて笑っていました。どうやらドッキリというやつにかかってしまったようです。
「すげえなお前。俺、さっきからずっと近くにいたのに」
「あいにく僕は鈍いんだ。知っているだろうけど」
「悪い悪い。別にバカにするつもりは無かったんだけどよ」
腹を抱えていた友人の芥川――おそらく偽名でしょう――は尻餅をついた私の傍に腰掛けました。彼は前線で大量の死人を相手に活躍していましたが、銃の暴発で片腕を失ってから自警団から戻って来ました。皮肉な事に、彼をクビにした戦隊は全滅したのだそうです。
「悪いな。夜になるとする事が無くてなあ」
芥川は両手を広げて笑いました。義肢の左腕は昔から彼の一部に見えました。
しかし我儘な男です。芥川は女性にも持てましたから、夜が暇というのは贅沢な悩みにもほどがあるというものです。
「それで暇つぶしに?」
「そんなところか。見張りも無能だったからな」
言いしなに背中をバンと叩かれましたが、事実なので少しも傷付きやしませんでした。
「なあ、ちょっといいか?」
「なんだい?」
面倒くさいなとは思いつつも、私は芥川の言葉に耳を傾けました。歩哨として突っ立っているよりは遥かにマシだったからです。
「これっていつまで続くんだろうな?」
「これって?」
「いや、この生活だよ」
そんなの知るかと思いましたが、せっかく始まった暇つぶしです。私は素直に話を聞き続けました。
「俺さ、野球選手になりたかったんだよね」
ふいに芥川の自分語りが始まりました。死亡フラグまっしぐらのような気がしますが、面白そうなので黙って先を促します。
「高校一年生の時点で一六〇キロの球とか投げてさ、ドラフトで一位間違い無しなんて言われていたんだけど、戦争が全てを奪ってしまった。いや、ゾンビに全部喰われたっていう方が適切なのか」
「悲運の天才というやつだね」
どうでもいい話にフォロー出来る私はやはり持てるのでしょう。
「たまに思うんだよ。このままプロ野球選手になって、バリバリのメジャーリーガーになっていたらどうだったんだろう? とか」
「今よりはだいぶ幸せになっていただろうね」
私は微妙なところです。どちらにしても世界は絶望で満ちていました。
「俺さあ、こう見えても練習だけは真面目にやっててさ、絶対にテッペン獲ってやるんだって息巻いていたわけ。それで死に物狂いで努力してきたのにこのザマだ。まったく、やってられないよな」
「……」
「この戦争が終わってからの事を考えてみたんだ。時間はかかるだろうけど、平和な世の中を取り戻したら、もう一度野球が出来るような社会を作っていきたいんだ」
「それはいいね」
棒読みでした。死亡フラグをこじらせていましたから。
「それが実現する時になったら、お前もスタッフになってくれないか?」
「生きてたらね」
「生きてろよ」
芥川は笑いながら私の手を握りました。ですが、冗談でもなんでもなく、この戦争が終結するまで私が生きていられるとは思えなかったのです。それでもただ芥川をガッカリさせないという目的のために、まったく心のこもっていない握手をしました。
世に言う美しい友情というやつなのでしょうか?
紅い月の下で、私達は固く握手をしました。戦友である芥川が幸せになれる世界が手に入るのなら、まだ平和を取り戻すだけの価値はあるのかもしれません。
その時、芥川が私を突き飛ばしました。「逃げろ」と言ったのは憶えていましたが、私は目下転がっていて地面の他に何も見えません。
のっそりと起き上がると、芥川の上に何者かが覆いかぶさっていました。
――死人(しびと)です。
私達が美しい夢を語り合っている間に、死人はたしかに私達の野営地へと迫っていたのです。やはり私は無能な哨戒兵でした。
あのタフガイもここまでかと思っていると、芥川は軍靴で死人の胸を蹴り上げ、口径の大きい銃を脳髄に乱射しました。三発ほど頭部を打ちぬかれた死人は、ゴトリと倒れてそのまま動きませんでした。
安心もつかの間、周囲からは銃声に呼び寄せられた死人がわんさかと集まってきました。私も芥川も口をきく事が出来ませんでした。
それでも英雄の遺伝子なのか、芥川は片手でいくつもの銃を器用に扱い、死人の群れに逃げ道を確保していきます。私は壊れたトカレフを片手に、彼の背中を追う事しか出来ませんでした。
かなり巧く闘った芥川も、あまりに多くの死人に囲まれたらどうしようもありません。逃げ道のすぐ先には、死人がウジャウジャと群がっていました。
「援護してくれ!」
芥川が放り投げた銃を取り落とし、慌てて拾い直しました。名前も知らない銃のトリガーを引くと、弾の反動ですっ転びました。この状況下で安定のヘタレっぷりです。
それでも周囲を取り囲むゾンビを着々と倒していきました。もしかしたら逃げ切れるかという頃になって、芥川が「まずい」という顔でこちらを見ました。
どうやら弾が切れてしまったようでした。
私と芥川は長い一瞬の間、見つめ合っていました。
思えば、死にたがっていた私が彼に銃を投げてやれば良かったのです。たとえ、それが不良品のトカレフだったとしても。
長い一瞬で逡巡していると、一斉に死人が芥川へと襲いかかりました。死人に呑まれた彼は、何とか助かろうと私の方へ手を伸ばしていました。
私はしばらく硬直して地獄絵図を見ていると、本能的に背を向けて走り出しました。
嗚呼、私は死にたがっていたくせに未来を夢見ていた仲間を見捨てたのです。逃げながら『未来の夢を語るとか、死亡フラグを立てるからだ』と自分の行いを正当化していました。それでも私は確実に罪人だったのです。
死人鬼十則
四、 難しい救助は諦めろ、ヒーローの猿真似をした人間はあの世で後悔する事になる。
図らずも私は、あれほど忌み嫌っていた生存の法則を遵守していたのです。人間的な何かを代償にして。
――人間、失格。
走りながら、脳裏にはそんな言葉が浮かんで来ました。
私は心の底から、骨の髄までクズだったのです。
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一人で不良品のトカレフを持ち、周囲の音に耳を澄ませていました。今日の月は紅く光ってとても美しい。
ですが、この日は何か嫌な重みというか、空気を通じて伝わる何かがありました。私にしてはずいぶんと知覚が鋭敏になっていたのだと思います。土が踏み鳴らされるような音が、ゆっくりとゆっくりと近付いて来るような気がしました。この日は湿気が多く、少しでも動くとすぐに汗が吹き出ます。脱水症状には気を付けないといけないなと思っていると、次第に何かを押す程度だった音は、重みを増した風に変化して、私の方へと近付いてきます。
息を呑み、周囲を見渡しました。マグライトの筋は見えません。
どうやら彼らが近くまで来ているようです。いよいよ私も殉職か。闘う前からそのような事を思っていました。
足跡はどんどん近付いて来ます。ぞれは前から来るようにも聞こえたし、後ろから聞こえるような気もしました。鼓動は徐々に早くなり、あれだけ死にたがっていたくせに胸が苦しくなって、汗が滲んできました。
音がふいに止み、自分の臆病ぶりに悪態を吐こうとしたその瞬間、前触れもなく後ろから羽交い絞めにされました。息は止まり、心臓は波打ち、意識に厚い膜がかかったような気がしました。
嗚呼、とうとう私も殉死するのか。そう思うと、諦念と往生際の悪い生への執着心が同時に沸き起こりました。矛盾する感情はこの胸でせめぎ合い、吐き気がこみ上げてきました。殺すならさっさと殺してほしいのです。喰うのなら早く喰ってほしいのです。なぜ楽にしてくれないのですか。
そんな怒りすら感じていると、私を捕らえていた手はふいに力を緩めました。私は勢いよく地面に転がり、土塗れになって背後を見上げました。
「ギャッハッハ、隙だらけだよ、お前は」
視線の先では、一緒に暮らしている仲間が手を叩いて笑っていました。どうやらドッキリというやつにかかってしまったようです。
「すげえなお前。俺、さっきからずっと近くにいたのに」
「あいにく僕は鈍いんだ。知っているだろうけど」
「悪い悪い。別にバカにするつもりは無かったんだけどよ」
腹を抱えていた友人の芥川――おそらく偽名でしょう――は尻餅をついた私の傍に腰掛けました。彼は前線で大量の死人を相手に活躍していましたが、銃の暴発で片腕を失ってから自警団から戻って来ました。皮肉な事に、彼をクビにした戦隊は全滅したのだそうです。
「悪いな。夜になるとする事が無くてなあ」
芥川は両手を広げて笑いました。義肢の左腕は昔から彼の一部に見えました。
しかし我儘な男です。芥川は女性にも持てましたから、夜が暇というのは贅沢な悩みにもほどがあるというものです。
「それで暇つぶしに?」
「そんなところか。見張りも無能だったからな」
言いしなに背中をバンと叩かれましたが、事実なので少しも傷付きやしませんでした。
「なあ、ちょっといいか?」
「なんだい?」
面倒くさいなとは思いつつも、私は芥川の言葉に耳を傾けました。歩哨として突っ立っているよりは遥かにマシだったからです。
「これっていつまで続くんだろうな?」
「これって?」
「いや、この生活だよ」
そんなの知るかと思いましたが、せっかく始まった暇つぶしです。私は素直に話を聞き続けました。
「俺さ、野球選手になりたかったんだよね」
ふいに芥川の自分語りが始まりました。死亡フラグまっしぐらのような気がしますが、面白そうなので黙って先を促します。
「高校一年生の時点で一六〇キロの球とか投げてさ、ドラフトで一位間違い無しなんて言われていたんだけど、戦争が全てを奪ってしまった。いや、ゾンビに全部喰われたっていう方が適切なのか」
「悲運の天才というやつだね」
どうでもいい話にフォロー出来る私はやはり持てるのでしょう。
「たまに思うんだよ。このままプロ野球選手になって、バリバリのメジャーリーガーになっていたらどうだったんだろう? とか」
「今よりはだいぶ幸せになっていただろうね」
私は微妙なところです。どちらにしても世界は絶望で満ちていました。
「俺さあ、こう見えても練習だけは真面目にやっててさ、絶対にテッペン獲ってやるんだって息巻いていたわけ。それで死に物狂いで努力してきたのにこのザマだ。まったく、やってられないよな」
「……」
「この戦争が終わってからの事を考えてみたんだ。時間はかかるだろうけど、平和な世の中を取り戻したら、もう一度野球が出来るような社会を作っていきたいんだ」
「それはいいね」
棒読みでした。死亡フラグをこじらせていましたから。
「それが実現する時になったら、お前もスタッフになってくれないか?」
「生きてたらね」
「生きてろよ」
芥川は笑いながら私の手を握りました。ですが、冗談でもなんでもなく、この戦争が終結するまで私が生きていられるとは思えなかったのです。それでもただ芥川をガッカリさせないという目的のために、まったく心のこもっていない握手をしました。
世に言う美しい友情というやつなのでしょうか?
紅い月の下で、私達は固く握手をしました。戦友である芥川が幸せになれる世界が手に入るのなら、まだ平和を取り戻すだけの価値はあるのかもしれません。
その時、芥川が私を突き飛ばしました。「逃げろ」と言ったのは憶えていましたが、私は目下転がっていて地面の他に何も見えません。
のっそりと起き上がると、芥川の上に何者かが覆いかぶさっていました。
――死人(しびと)です。
私達が美しい夢を語り合っている間に、死人はたしかに私達の野営地へと迫っていたのです。やはり私は無能な哨戒兵でした。
あのタフガイもここまでかと思っていると、芥川は軍靴で死人の胸を蹴り上げ、口径の大きい銃を脳髄に乱射しました。三発ほど頭部を打ちぬかれた死人は、ゴトリと倒れてそのまま動きませんでした。
安心もつかの間、周囲からは銃声に呼び寄せられた死人がわんさかと集まってきました。私も芥川も口をきく事が出来ませんでした。
それでも英雄の遺伝子なのか、芥川は片手でいくつもの銃を器用に扱い、死人の群れに逃げ道を確保していきます。私は壊れたトカレフを片手に、彼の背中を追う事しか出来ませんでした。
かなり巧く闘った芥川も、あまりに多くの死人に囲まれたらどうしようもありません。逃げ道のすぐ先には、死人がウジャウジャと群がっていました。
「援護してくれ!」
芥川が放り投げた銃を取り落とし、慌てて拾い直しました。名前も知らない銃のトリガーを引くと、弾の反動ですっ転びました。この状況下で安定のヘタレっぷりです。
それでも周囲を取り囲むゾンビを着々と倒していきました。もしかしたら逃げ切れるかという頃になって、芥川が「まずい」という顔でこちらを見ました。
どうやら弾が切れてしまったようでした。
私と芥川は長い一瞬の間、見つめ合っていました。
思えば、死にたがっていた私が彼に銃を投げてやれば良かったのです。たとえ、それが不良品のトカレフだったとしても。
長い一瞬で逡巡していると、一斉に死人が芥川へと襲いかかりました。死人に呑まれた彼は、何とか助かろうと私の方へ手を伸ばしていました。
私はしばらく硬直して地獄絵図を見ていると、本能的に背を向けて走り出しました。
嗚呼、私は死にたがっていたくせに未来を夢見ていた仲間を見捨てたのです。逃げながら『未来の夢を語るとか、死亡フラグを立てるからだ』と自分の行いを正当化していました。それでも私は確実に罪人だったのです。
死人鬼十則
四、 難しい救助は諦めろ、ヒーローの猿真似をした人間はあの世で後悔する事になる。
図らずも私は、あれほど忌み嫌っていた生存の法則を遵守していたのです。人間的な何かを代償にして。
――人間、失格。
走りながら、脳裏にはそんな言葉が浮かんで来ました。
私は心の底から、骨の髄までクズだったのです。
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