変態でいる勇気
- 2017/04/29
- 13:03
変態でい続ける勇気というものがある。
どの芸術の世界にも、奇抜さを売りにして頭角をあらわす人間がいる。彼らはしばしばゲテモノ扱いされるものの、後世の権威やら羨望の対象となっている事がある。
今回はこの奇抜さと表現の関連性について語ってみよう。
過去の記事でも何回か話したけれど、文章とは書き手と読み手のコミュニケーションである。
書き手は自身の頭に浮かんだホラ話を文字という媒体を通して読者の思考へと送り込み、そのホラ話を共有して楽しむわけだ。これは明らかに人間にしか出来ない芸当だろう。
作家というものはやろうと思えばほぼ無予算でエンタメを提供出来るわけで、それゆえに私のような守銭奴やら才能も無いくせに文学界に激震を起こすべく立ち上がるワナヴィ(怪しい英語風)も存在するわけだ。
上述の通り、沢山の人が集まっているのだから才能のある人もいれば無い人も混ざっているわけで、世の人はそれを玉石混淆と言う。
才能が無い人はそこらへんに置いてといて、その中で必ず奇抜な才能を持った人が出て来る。そして、大体は辛辣な批評もどきを浴びせられる。
奇抜な人がなぜ叩かれるのか、そしてなぜ散々叩かれたはずの人が後世に名を残すのか。
答えは割とシンプルである。
それは、その人が時代のテンプレに違反したからである。
どこの世界にも、いつの時代にも、同調圧力というものは存在する。
時代を変えようとする人は成功しようがしまいが、「普通」の枠組みからはみ出た人間は異端者としてボコボコに叩かれる運命にある。その人はその時代にある地動説的な概念を覆そうと努力しているからである。
地動説的なコモンセンスというか、その時代の不文律的なものを破ろうとした人間は大概が世の安寧を乱す者として疎まれる。そこには沢山の既得権益が隠れているからだ。
どこの世界でも、いわゆる「専門家」はプレイヤーとして大成出来なかったか、一時的に成功はしても、のちに失敗してしまった人がなるものと相場が決まっている。
批評眼に自信のある人に小説を書かせてみたらいい。あらまあなんと酷い事。私ならば自害を試みかねない作品を自信満々で書き上げてくる。ある意味ブスほどマウンティングしたがるのと似ている。
話は逸れたけれど、どこの世界にもサイケ色の才人はいるわけで、それは才能の無い人ほどとはいかないまでも、そこそこ貴重なキノコぐらいには数があるわけだ。
ではなぜ彼らは頭角をあらわす事が困難になるのか?
答えはやはりシンプルである。
同調圧力で満ちた芸術の世界というものは、大概の場合、本物になれなかった専門家が筆頭になって異端者狩りを始めるからである。
専門家は「小説はこうあるべきだ」というテンプレを脳内にセメントで固定しており、その金科玉条たるや鉛の如く揺るがない。
もっとわかりやすい言葉で言うなら、ひたすら頑固で新しい概念を受け入れないように作ってあるのだ。
そういう人は自身の中に揺るがない正義(笑)を持っているため、自分の物差しに合わない人間をとにかく潰しにかかる。自身がそうされてきたように。
こうやって異端者狩りの犠牲になった人はしばしばゾンビのように狩る側へと回る事があり、自分のされた事は人にやってもいいと思う傾向にある。
こうやって貴重なキノコは普通というステータスを勝ち取るというか、もっと嫌味でない言い方をするなら凡俗になっていく。
能ある鷹は爪を隠すと言うが、賢い人は人間が持つ愚かしいルサンチマンを本能的に知っているため、本当に成功を摑むまでは息を潜めている傾向にある。そうしないと才能が花開く前に潰されてしまうからだ。
だが昨今の時代は自分が存在している事を知らしめないと人知れず消えていく運命にある。ここに創作者のジレンマがある。
おそらく現代ほどチャンスに恵まれている時代もないだろう。だが同時に、才能のある人間が叩かれて潰されてしまいやすい時代でもある。
少なくとも今活躍したい芸術家はハートが弱いと致命的になる。どれだけ批判に晒されても、揺るがない自己を確立せねばなるまい。
現代は灰色のルネサンス。
(誰もこの表現を盗まない事を切に願う)
自意識の濁流に呑まれても、平然としていられるメンタリティーは必須となる。
いずれにしても、たゆまぬ自己研鑽は肝要なり。努力を努力だと思っている人は、天才の領域にはまるで届かない。
ある人が変態という評価は必ずしも正しくない。
よく見たら、それはただの天才かもしれない。
どの芸術の世界にも、奇抜さを売りにして頭角をあらわす人間がいる。彼らはしばしばゲテモノ扱いされるものの、後世の権威やら羨望の対象となっている事がある。
今回はこの奇抜さと表現の関連性について語ってみよう。
過去の記事でも何回か話したけれど、文章とは書き手と読み手のコミュニケーションである。
書き手は自身の頭に浮かんだホラ話を文字という媒体を通して読者の思考へと送り込み、そのホラ話を共有して楽しむわけだ。これは明らかに人間にしか出来ない芸当だろう。
作家というものはやろうと思えばほぼ無予算でエンタメを提供出来るわけで、それゆえに私のような守銭奴やら才能も無いくせに文学界に激震を起こすべく立ち上がるワナヴィ(怪しい英語風)も存在するわけだ。
上述の通り、沢山の人が集まっているのだから才能のある人もいれば無い人も混ざっているわけで、世の人はそれを玉石混淆と言う。
才能が無い人はそこらへんに置いてといて、その中で必ず奇抜な才能を持った人が出て来る。そして、大体は辛辣な批評もどきを浴びせられる。
奇抜な人がなぜ叩かれるのか、そしてなぜ散々叩かれたはずの人が後世に名を残すのか。
答えは割とシンプルである。
それは、その人が時代のテンプレに違反したからである。
どこの世界にも、いつの時代にも、同調圧力というものは存在する。
時代を変えようとする人は成功しようがしまいが、「普通」の枠組みからはみ出た人間は異端者としてボコボコに叩かれる運命にある。その人はその時代にある地動説的な概念を覆そうと努力しているからである。
地動説的なコモンセンスというか、その時代の不文律的なものを破ろうとした人間は大概が世の安寧を乱す者として疎まれる。そこには沢山の既得権益が隠れているからだ。
どこの世界でも、いわゆる「専門家」はプレイヤーとして大成出来なかったか、一時的に成功はしても、のちに失敗してしまった人がなるものと相場が決まっている。
批評眼に自信のある人に小説を書かせてみたらいい。あらまあなんと酷い事。私ならば自害を試みかねない作品を自信満々で書き上げてくる。ある意味ブスほどマウンティングしたがるのと似ている。
話は逸れたけれど、どこの世界にもサイケ色の才人はいるわけで、それは才能の無い人ほどとはいかないまでも、そこそこ貴重なキノコぐらいには数があるわけだ。
ではなぜ彼らは頭角をあらわす事が困難になるのか?
答えはやはりシンプルである。
同調圧力で満ちた芸術の世界というものは、大概の場合、本物になれなかった専門家が筆頭になって異端者狩りを始めるからである。
専門家は「小説はこうあるべきだ」というテンプレを脳内にセメントで固定しており、その金科玉条たるや鉛の如く揺るがない。
もっとわかりやすい言葉で言うなら、ひたすら頑固で新しい概念を受け入れないように作ってあるのだ。
そういう人は自身の中に揺るがない正義(笑)を持っているため、自分の物差しに合わない人間をとにかく潰しにかかる。自身がそうされてきたように。
こうやって異端者狩りの犠牲になった人はしばしばゾンビのように狩る側へと回る事があり、自分のされた事は人にやってもいいと思う傾向にある。
こうやって貴重なキノコは普通というステータスを勝ち取るというか、もっと嫌味でない言い方をするなら凡俗になっていく。
能ある鷹は爪を隠すと言うが、賢い人は人間が持つ愚かしいルサンチマンを本能的に知っているため、本当に成功を摑むまでは息を潜めている傾向にある。そうしないと才能が花開く前に潰されてしまうからだ。
だが昨今の時代は自分が存在している事を知らしめないと人知れず消えていく運命にある。ここに創作者のジレンマがある。
おそらく現代ほどチャンスに恵まれている時代もないだろう。だが同時に、才能のある人間が叩かれて潰されてしまいやすい時代でもある。
少なくとも今活躍したい芸術家はハートが弱いと致命的になる。どれだけ批判に晒されても、揺るがない自己を確立せねばなるまい。
現代は灰色のルネサンス。
(誰もこの表現を盗まない事を切に願う)
自意識の濁流に呑まれても、平然としていられるメンタリティーは必須となる。
いずれにしても、たゆまぬ自己研鑽は肝要なり。努力を努力だと思っている人は、天才の領域にはまるで届かない。
ある人が変態という評価は必ずしも正しくない。
よく見たら、それはただの天才かもしれない。
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