こんな時代だから
- 2017/04/22
- 12:47
「名無しの挽歌」を書いた時にふと思った事だけど、世間で言うトレンドは名無しになりつつあるというか、何者かになりたがる人の物語が好まれるのではないかと。
最近ではどんな芸術分野も毛細血管みたいに広がり過ぎてしまい、芸術家という単語が殉教者というか無職というか、あまり報われない人種を指しつつある。
黒夢の商標が競売に出されたのは色々とショックだった。もうミュージシャン誰も食っていけないじゃんと。
デイブ・ムステインが金持っているファン向けに開いたギター教室も個人的には「えー?」って感じ(笑)。
AKBの影響もそこそこあるんだろうけれど、ミュージシャンは私生活というか、裏舞台にガシガシとファンを食い込ませる方針を取りだした。いくら同じ人の子とはいえ、ちょっとねえ、と。手が届いたら憧れじゃなくなっちゃうじゃんとも思う。
余談はさておき、いわゆる「何でもいいからデカい事をしたい」という漠然とした考え方を密かに(この密かにという要素がミソだ)持ちつつ、努力はするんだけど環境が厳しすぎて実現出来ないみたいな話は共感を得やすいというか、自尊心の削り合いに満ちた現代では鉄板ネタだと思う。
芥川賞を獲った又吉の作品然り、同じく直木賞の「何者」然り、何かになろうとして人がもがく姿は現代の日本人をそのまま投影していると言っていいだろう。
そこらへんのオッサンでも「昔は俺も悪かった」みたいな自慢話を沢山する。
大して容姿が優れているわけでもないのにやたらとマウンティングしたがるOLだって確かに何者かになろうとしているじゃないか。あの程度の容姿しか持たないくせに。
仮に彼らが芸能界を目指していなくたって、自尊心というステージにピンヒールで立ち、見栄というドレスを纏ってジャイアンよろしく歌おうとする薄汚い根性はいつだって透けて見えている。
願望が見つからないようにしているところがいかにもそういう人らしいというか、いつでも逃げられるポジションをキープしているあたりが少しばかり嘲笑をぶつけてやりたくなる。
またまた話は逸れたけれど、ある意味誰も名を成せなくなりつつある現代において、名も無き芸術家はアイコンになりやすいのかなとも思う。嗅覚が鋭い芸術家はその辺を敏感に察知して突いてきている印象がある。
いくら名無し同士の静かな争いとはいえ、そこにはやっぱりクソの投げ合いというか、低次元には低次元らしい醜悪さもある。ぶっちぎりの能力を持った人は一生無縁でいるような要素だな。
ここに蟹味噌的な要素というか、不味い不味いと言いながら実はみんな結構好きな場所だったりする。
まあ、ある意味時代そのものが暗鬱としてきているというのもあるのだけれど、実のところ皆さん傷だらけで、もがいていて、どうにかこうにか絶望から這い上がって何かデカい事(適当)を成し遂げてやろうという時代なわけですよ、奥さん。国民的に自意識がこじれまくっていて、あちこちでクソが飛び交っている時代なわけだ。
だから名無しはホープレスな現代において普遍的な題材になる。
名を成したい。でも有名になるとバカスカ叩かれる。だからそこそこ有名になって自由に生きたい。
そんな身勝手な相克がそこらじゅうに溢れているので、私はしばしば毒づいてやりたくなるわけだ。
安全地帯から有名になる機会をコソコソ窺って自主性は皆無。誰かが起こしたビッグウェーブに乗れたらコスパがいいですよね……って舐めてんのかと。なれるかいボケカス。
と謎の御乱心を見せてしまったが、名無しは普遍的テーマであるとともに扱いが難しい。
そこには踏みみじられた自尊心と、暗鬱たるクソの投げ合いと、最後に薄っすらと見える希望の欠片を程良いバランスで書かないといけない。
だからこの記事を読んで安易に猿真似をしようと思っているんだったらやめておいた方がいい。きっと待っているのは辛辣な批評と未来で待ち受ける予約済みの黒歴史だけ。
名無しになるのは簡単だけど、名無しを描くのはまるで別物なのだ。勘違い野郎が客観的に勘違い野郎を書く事は不可能なのと同じように。
結局のところ、名無しですら選ばれし者にしか書けない。
最近ではどんな芸術分野も毛細血管みたいに広がり過ぎてしまい、芸術家という単語が殉教者というか無職というか、あまり報われない人種を指しつつある。
黒夢の商標が競売に出されたのは色々とショックだった。もうミュージシャン誰も食っていけないじゃんと。
デイブ・ムステインが金持っているファン向けに開いたギター教室も個人的には「えー?」って感じ(笑)。
AKBの影響もそこそこあるんだろうけれど、ミュージシャンは私生活というか、裏舞台にガシガシとファンを食い込ませる方針を取りだした。いくら同じ人の子とはいえ、ちょっとねえ、と。手が届いたら憧れじゃなくなっちゃうじゃんとも思う。
余談はさておき、いわゆる「何でもいいからデカい事をしたい」という漠然とした考え方を密かに(この密かにという要素がミソだ)持ちつつ、努力はするんだけど環境が厳しすぎて実現出来ないみたいな話は共感を得やすいというか、自尊心の削り合いに満ちた現代では鉄板ネタだと思う。
芥川賞を獲った又吉の作品然り、同じく直木賞の「何者」然り、何かになろうとして人がもがく姿は現代の日本人をそのまま投影していると言っていいだろう。
そこらへんのオッサンでも「昔は俺も悪かった」みたいな自慢話を沢山する。
大して容姿が優れているわけでもないのにやたらとマウンティングしたがるOLだって確かに何者かになろうとしているじゃないか。あの程度の容姿しか持たないくせに。
仮に彼らが芸能界を目指していなくたって、自尊心というステージにピンヒールで立ち、見栄というドレスを纏ってジャイアンよろしく歌おうとする薄汚い根性はいつだって透けて見えている。
願望が見つからないようにしているところがいかにもそういう人らしいというか、いつでも逃げられるポジションをキープしているあたりが少しばかり嘲笑をぶつけてやりたくなる。
またまた話は逸れたけれど、ある意味誰も名を成せなくなりつつある現代において、名も無き芸術家はアイコンになりやすいのかなとも思う。嗅覚が鋭い芸術家はその辺を敏感に察知して突いてきている印象がある。
いくら名無し同士の静かな争いとはいえ、そこにはやっぱりクソの投げ合いというか、低次元には低次元らしい醜悪さもある。ぶっちぎりの能力を持った人は一生無縁でいるような要素だな。
ここに蟹味噌的な要素というか、不味い不味いと言いながら実はみんな結構好きな場所だったりする。
まあ、ある意味時代そのものが暗鬱としてきているというのもあるのだけれど、実のところ皆さん傷だらけで、もがいていて、どうにかこうにか絶望から這い上がって何かデカい事(適当)を成し遂げてやろうという時代なわけですよ、奥さん。国民的に自意識がこじれまくっていて、あちこちでクソが飛び交っている時代なわけだ。
だから名無しはホープレスな現代において普遍的な題材になる。
名を成したい。でも有名になるとバカスカ叩かれる。だからそこそこ有名になって自由に生きたい。
そんな身勝手な相克がそこらじゅうに溢れているので、私はしばしば毒づいてやりたくなるわけだ。
安全地帯から有名になる機会をコソコソ窺って自主性は皆無。誰かが起こしたビッグウェーブに乗れたらコスパがいいですよね……って舐めてんのかと。なれるかいボケカス。
と謎の御乱心を見せてしまったが、名無しは普遍的テーマであるとともに扱いが難しい。
そこには踏みみじられた自尊心と、暗鬱たるクソの投げ合いと、最後に薄っすらと見える希望の欠片を程良いバランスで書かないといけない。
だからこの記事を読んで安易に猿真似をしようと思っているんだったらやめておいた方がいい。きっと待っているのは辛辣な批評と未来で待ち受ける予約済みの黒歴史だけ。
名無しになるのは簡単だけど、名無しを描くのはまるで別物なのだ。勘違い野郎が客観的に勘違い野郎を書く事は不可能なのと同じように。
結局のところ、名無しですら選ばれし者にしか書けない。
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