独裁
- 2017/04/08
- 12:38
人生の転換期を迎えたせいもあるのか、最近は知らぬ間に人を観察する時間が増えたような気がする。
そのせいもあるのか、また山奥で思索に耽る哲人のように迷惑な分析をこじらせている。
KDPにも色んなコンテンツというかコミュニティが出ては消えていったけれど、コミュニティが落ちぶれる時にはある法則が存在する。
もちろん名前を出して誰かを晒し者にするつもりはないけれど、レビューやら作品を出し合う企画をやった時に「これをやったら確実に終わる」という間違いがある。
それは
「才能の無い創作家を保護する事」
上記につきる。
なに? 当たり前だって?
本当にそうだろうか?
あのサイトもこのサイトも、あの同人誌も才能の無い奴を受け入れる事によってガタガタと崩れ始めた。
正直なところ、同人的な活動で見られる風習にまったく共感出来ない価値観がある。
それは参加者の平等にやたらと気を揉んでいる点だ。この考え方がまるで理解出来ない。外へと向かうべき主催者の注意が内向している。
というのも、単純に読者の視点を持った時、面白い作品から掲載していった方が売れるに決まっているではないか。
だから週刊マンガなんかは毎週アンケートを取って人気順にマンガを掲載しているし、漫画家もそれをモチベーションにして頑張っているところがあるだろう。需要がある人が優遇されるのは当たり前の話だ。
アンケートを取っていないにしても、ある程度周りの反応を聞いていたら分かるじゃないか。
それなのに主催者はしばしばこの平等という罠に嵌る。それはなぜなのか。
答えはわりと簡単だ。
作品で自分の居場所を確保出来ない奴は、政治に走ったり、平等というもっともらしい概念を盾に主催者の方針に口を出して頭角をあらわそうとするからだ。ブスが学芸会の主演に立候補するのに似ている。
全員が全員とは言わないけれど、実力のある人は比較的だんまり気味というか、仮にうるさくても芸人よろしく面白いやかましさを演出する傾向にあると思う。
それはしばしば天然の場合もあるのだけれど、ある意味それも才能の範疇だろう。
話を戻すけれど、才能の無い人にスポットライトを当てた先には真っ暗な未来が待っている。それは陰部にライトを当てるのに近しいからだ。
巻頭につまらない作家の作品が選ばれた文芸誌の惨めさたるや目も当てられない。
読者は最初の作品をパラパラ読んですぐに本を閉じるか、良くても次の作家が書いた小説に移るだろう。
第一線のプロですら文芸誌の巻頭がつまらないと「金返せ」と思うじゃないか。初めてというのは操を捧げる時以外も大事なのだ。
だから主催者は常に冷酷さを持たねばならない。舵取り次第で劇団が四季と学芸会並みに差が開くかもしれない。
その躓きのきっかけはいつでも才能の無い連中に門戸を開く事なのだ。これは誰にでも足を開く女よりも遥かに軽率な行為である。
時には独裁というやり方が必要になる。
というのも、民主主義に走ったコミュニティは大抵才能の無い奴らのオアシスというか、クリニックというか、巣窟というか、保健所というか、老人ホームになるからだ。それは単に才能の無い人間の数の方が多いからで、選ばれし者は必然的に少数派となる。
民主主義はいつも才能の無い奴らの権利を守るために悪用される。それが正しく機能するのは才能のある人しかいない場合に限る。つまり、そんなコミュニティは存在しない。
これはかなり辛辣な表現かもしれない。だが実際に才能の無い人に先陣を切らせたコミュニティがどんな末路を辿っただろう?
やっぱり名前は伏せるけれど、品の無いタイトルの作品がトップを飾った文芸誌の行く末はリリース時点から見えていた。主催者はせめて「タイトルを変えろ」ぐらい言えなかったのか。
参加者の横暴を許した途端、コミュニティは来園者を楽しませるアミューズメント施設ではなく、大して重要ではない珍獣を保護してはいたいけな篤志家から寄付金をかすめ取る保護施設に成り果てるのである。
読者はあんたらが絶滅しないように金を払うんじゃない。日常のちょっとした空白を埋めるためにジュースを一本か二本我慢して電子書籍を買うのだ。
別に鼻クソをほじりながら小説を書いたっていい。それが読者の心に響くなら、売れ線で書こうが時代と寝た作品だろうが小銭稼ぎという不誠実な動機で書かれたものであろうが知った事じゃない。誰が作家の執筆動機なんぞ気にするものか。
だけど、もし金を取って何かを提供するなら、それには対価が存在しないといけない。
一生懸命さは対価にはならない。最近は感動ポルノなる言葉も生まれ、世間はますます手厳しさを増している。
大事な事は提供する側の想いではないのだ。少なくとも読者にとっては。
恐ろしいけれど、読み手は思っている以上に酷薄で、時々優しさを見せる。まるで、乙女心のように。
以上によりコミュニティを企画する人間には独裁する勇気が必要なのだ。舵取りを複数の人間でやり、その中に無能な奴らが混じっていたらどんなに立派な船だって沈むに決まっている。
もう一度言う。舵取りには独裁が必要になる。
そこには近付きがたいまでの自意識と、自身の持つ審美眼への矜持が求められる。自分を客観視出来るナルシストでなければいけない。
結局は自分勝手な奴らを相手にしているのだ。船長は独裁者でないと務まらない。
よき独裁を。
追伸
エイプリルフールネタを予約投稿にしたせいか本当に死んだと思われているみたいだ。
まあ知るか。
そのせいもあるのか、また山奥で思索に耽る哲人のように迷惑な分析をこじらせている。
KDPにも色んなコンテンツというかコミュニティが出ては消えていったけれど、コミュニティが落ちぶれる時にはある法則が存在する。
もちろん名前を出して誰かを晒し者にするつもりはないけれど、レビューやら作品を出し合う企画をやった時に「これをやったら確実に終わる」という間違いがある。
それは
「才能の無い創作家を保護する事」
上記につきる。
なに? 当たり前だって?
本当にそうだろうか?
あのサイトもこのサイトも、あの同人誌も才能の無い奴を受け入れる事によってガタガタと崩れ始めた。
正直なところ、同人的な活動で見られる風習にまったく共感出来ない価値観がある。
それは参加者の平等にやたらと気を揉んでいる点だ。この考え方がまるで理解出来ない。外へと向かうべき主催者の注意が内向している。
というのも、単純に読者の視点を持った時、面白い作品から掲載していった方が売れるに決まっているではないか。
だから週刊マンガなんかは毎週アンケートを取って人気順にマンガを掲載しているし、漫画家もそれをモチベーションにして頑張っているところがあるだろう。需要がある人が優遇されるのは当たり前の話だ。
アンケートを取っていないにしても、ある程度周りの反応を聞いていたら分かるじゃないか。
それなのに主催者はしばしばこの平等という罠に嵌る。それはなぜなのか。
答えはわりと簡単だ。
作品で自分の居場所を確保出来ない奴は、政治に走ったり、平等というもっともらしい概念を盾に主催者の方針に口を出して頭角をあらわそうとするからだ。ブスが学芸会の主演に立候補するのに似ている。
全員が全員とは言わないけれど、実力のある人は比較的だんまり気味というか、仮にうるさくても芸人よろしく面白いやかましさを演出する傾向にあると思う。
それはしばしば天然の場合もあるのだけれど、ある意味それも才能の範疇だろう。
話を戻すけれど、才能の無い人にスポットライトを当てた先には真っ暗な未来が待っている。それは陰部にライトを当てるのに近しいからだ。
巻頭につまらない作家の作品が選ばれた文芸誌の惨めさたるや目も当てられない。
読者は最初の作品をパラパラ読んですぐに本を閉じるか、良くても次の作家が書いた小説に移るだろう。
第一線のプロですら文芸誌の巻頭がつまらないと「金返せ」と思うじゃないか。初めてというのは操を捧げる時以外も大事なのだ。
だから主催者は常に冷酷さを持たねばならない。舵取り次第で劇団が四季と学芸会並みに差が開くかもしれない。
その躓きのきっかけはいつでも才能の無い連中に門戸を開く事なのだ。これは誰にでも足を開く女よりも遥かに軽率な行為である。
時には独裁というやり方が必要になる。
というのも、民主主義に走ったコミュニティは大抵才能の無い奴らのオアシスというか、クリニックというか、巣窟というか、保健所というか、老人ホームになるからだ。それは単に才能の無い人間の数の方が多いからで、選ばれし者は必然的に少数派となる。
民主主義はいつも才能の無い奴らの権利を守るために悪用される。それが正しく機能するのは才能のある人しかいない場合に限る。つまり、そんなコミュニティは存在しない。
これはかなり辛辣な表現かもしれない。だが実際に才能の無い人に先陣を切らせたコミュニティがどんな末路を辿っただろう?
やっぱり名前は伏せるけれど、品の無いタイトルの作品がトップを飾った文芸誌の行く末はリリース時点から見えていた。主催者はせめて「タイトルを変えろ」ぐらい言えなかったのか。
参加者の横暴を許した途端、コミュニティは来園者を楽しませるアミューズメント施設ではなく、大して重要ではない珍獣を保護してはいたいけな篤志家から寄付金をかすめ取る保護施設に成り果てるのである。
読者はあんたらが絶滅しないように金を払うんじゃない。日常のちょっとした空白を埋めるためにジュースを一本か二本我慢して電子書籍を買うのだ。
別に鼻クソをほじりながら小説を書いたっていい。それが読者の心に響くなら、売れ線で書こうが時代と寝た作品だろうが小銭稼ぎという不誠実な動機で書かれたものであろうが知った事じゃない。誰が作家の執筆動機なんぞ気にするものか。
だけど、もし金を取って何かを提供するなら、それには対価が存在しないといけない。
一生懸命さは対価にはならない。最近は感動ポルノなる言葉も生まれ、世間はますます手厳しさを増している。
大事な事は提供する側の想いではないのだ。少なくとも読者にとっては。
恐ろしいけれど、読み手は思っている以上に酷薄で、時々優しさを見せる。まるで、乙女心のように。
以上によりコミュニティを企画する人間には独裁する勇気が必要なのだ。舵取りを複数の人間でやり、その中に無能な奴らが混じっていたらどんなに立派な船だって沈むに決まっている。
もう一度言う。舵取りには独裁が必要になる。
そこには近付きがたいまでの自意識と、自身の持つ審美眼への矜持が求められる。自分を客観視出来るナルシストでなければいけない。
結局は自分勝手な奴らを相手にしているのだ。船長は独裁者でないと務まらない。
よき独裁を。
追伸
エイプリルフールネタを予約投稿にしたせいか本当に死んだと思われているみたいだ。
まあ知るか。
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