投石
- 2017/03/25
- 13:18
ちょっと気になった事があったので、ある方向に石を投げておこう。私の知る限り分別のある人だから、石が飛んで来ても大して憤慨する事もないだろう。願望込みだけど。
某有名作家について苦言を呈しているインディーズ作家がいた。大作家のキャリアやら作風についての話だったと思うけれど、もっと思い切って書いたらとか、そんな内容の発言をしていたと記憶している。
そのインディーズ作家については好きだし尊敬しているのだけれど、正直な感想を言わせてもらうなら「何ておこがましい発言なのだろう」と思った。これが率直な第三者の意見だ。
うん、まあ、なんというか、インディーズとはいえ、私自身にも物書きの矜持というものは確かにある。そこは変に謙遜する必要も無いのだと思う。
だけど、だからって商業でバリバリやっているトッププロと同等とか格上に取れるような発言をしようとは思わない。なぜなら私は自分の身の程を知っているからだ。
まあ中にはトッププロでも何が面白いのかさっぱり分からない作家はいる。確かにいるんだけれど、やっぱり私達にも身の丈ってものはあるだろう。
今インディーズ作家が毒を吐いても割と大丈夫なのは、単に界隈外の知名度が低いから世間がスルーしてくれているだけの話だ。
つまり、それは公的な場所で発言するもんじゃない。だって私達が何を成し遂げたって言うんだ?
ちょっと視点を変えてみよう。一般社会の視点でこの発言を見てみるといい。
世間はきっと結果も出さずに生意気な口を叩く勘違い野郎にさぞ辛辣な評価を下すに違いない。なぜって、彼らは単純に私達を知らないからだ。
今迄散々偉そうな口をきいていた私が言っても説得力が皆無かもしれないけれど、やっぱり実績の無い人が実績のある人に辛辣な評価をしても、世間はそれを負け犬の遠吠えとしか取らない。
個人作家の世界ですらそういう傾向はあった。書きやしないくせに大口ばかり叩く作家がいかに嫌われていた事か。
市場傾向やその作家が実際に駄作濫造機かどうかはさておき、トッププロが数字面で文学を支えているのは確かなわけで、そういう恩恵を婉曲的にでも受けている限りド底辺の作家が荒ぶった口吻を披瀝するのは筋違いだろう。
だから黙ってろとまでは言わないけれど、比較的彼に近い存在である私から見ても「ん?」となった発言は、第三者からしたら違和感に拍車がかかったに違いない。
昔似たような話を他作家に対して言ったけれど、やはりネットの会話っていうのは世界中の誰でも見られるのであり、(水面下で他作家の悪口を言うのが許されても)公的な発言としては独り言では済まされないわけだ。
その辺の線引きはかなり厳格にやっておかないと後々痛い目を見る事になるだろう。世間はそう寛容ではないからだ。
実際私はいくらかの不快感と違和感を覚えた。永遠に売れる気が無い人は端から線引きなんかしないだろうが、そういう発想はちと悲しい。
どこの世界でも同じような話はあるけれど、ある程度長く活動を続けてきて名前がそこそこ知られるようになった時こそ、かえって気を引き締めないといけない。
それは自分自身が一介の人物であるという勘違いが生まれやすい時期であるのと、仮に知られた存在になれてもあなたの足を引っ張りたがっている人は存外に多いからだ。
どうしても何か言いたいのなら、それこそ同等の実績を出すしかないのではないか。
その兆しすら示せないなら、それはまさしく負け犬の遠吠えであり、痛々しい姿を晒すばかりである。
悔しかったら実績を作り上げるしかない。昨今の日本人からは野心という概念が消え去りつつあるけれど、なんだかんだ大口を叩きながら何かを成し遂げようと驀進する人の姿には一種の清々しさがある。
蚊帳の外というのは楽だ。大して発言に責任を取る必要も無いし、好き勝手後出し理論を展開していれば一見知的に見える。誰とは言わないけれど、最近は不勉強や審美眼の無さを言い訳するレビュアーもいる。
だが、いつの時代もただの批評家とやらは名を成さなかった。中には例外的な人もいるけれど、完全なる安全地帯から奔放に発言して名を残した人はいない。小林秀雄も決して安全地帯にはいなかった。嫌いだけど。
何が言いたいのか自分ですら曖昧模糊としてきたけど、いつになっても謙虚さを忘れずにいる事は大事だ。
ちなみに私はついつい毒を吐きそうになるので、結局は好きな作家しか取り上げない事にしている。嫌いな作家は腐るほどいるけれど、それは口にしないしするべきではない。
不快な感情はフィクションだけに存在していればいい。
憎悪なんていつの時代も供給過多なのだから。
某有名作家について苦言を呈しているインディーズ作家がいた。大作家のキャリアやら作風についての話だったと思うけれど、もっと思い切って書いたらとか、そんな内容の発言をしていたと記憶している。
そのインディーズ作家については好きだし尊敬しているのだけれど、正直な感想を言わせてもらうなら「何ておこがましい発言なのだろう」と思った。これが率直な第三者の意見だ。
うん、まあ、なんというか、インディーズとはいえ、私自身にも物書きの矜持というものは確かにある。そこは変に謙遜する必要も無いのだと思う。
だけど、だからって商業でバリバリやっているトッププロと同等とか格上に取れるような発言をしようとは思わない。なぜなら私は自分の身の程を知っているからだ。
まあ中にはトッププロでも何が面白いのかさっぱり分からない作家はいる。確かにいるんだけれど、やっぱり私達にも身の丈ってものはあるだろう。
今インディーズ作家が毒を吐いても割と大丈夫なのは、単に界隈外の知名度が低いから世間がスルーしてくれているだけの話だ。
つまり、それは公的な場所で発言するもんじゃない。だって私達が何を成し遂げたって言うんだ?
ちょっと視点を変えてみよう。一般社会の視点でこの発言を見てみるといい。
世間はきっと結果も出さずに生意気な口を叩く勘違い野郎にさぞ辛辣な評価を下すに違いない。なぜって、彼らは単純に私達を知らないからだ。
今迄散々偉そうな口をきいていた私が言っても説得力が皆無かもしれないけれど、やっぱり実績の無い人が実績のある人に辛辣な評価をしても、世間はそれを負け犬の遠吠えとしか取らない。
個人作家の世界ですらそういう傾向はあった。書きやしないくせに大口ばかり叩く作家がいかに嫌われていた事か。
市場傾向やその作家が実際に駄作濫造機かどうかはさておき、トッププロが数字面で文学を支えているのは確かなわけで、そういう恩恵を婉曲的にでも受けている限りド底辺の作家が荒ぶった口吻を披瀝するのは筋違いだろう。
だから黙ってろとまでは言わないけれど、比較的彼に近い存在である私から見ても「ん?」となった発言は、第三者からしたら違和感に拍車がかかったに違いない。
昔似たような話を他作家に対して言ったけれど、やはりネットの会話っていうのは世界中の誰でも見られるのであり、(水面下で他作家の悪口を言うのが許されても)公的な発言としては独り言では済まされないわけだ。
その辺の線引きはかなり厳格にやっておかないと後々痛い目を見る事になるだろう。世間はそう寛容ではないからだ。
実際私はいくらかの不快感と違和感を覚えた。永遠に売れる気が無い人は端から線引きなんかしないだろうが、そういう発想はちと悲しい。
どこの世界でも同じような話はあるけれど、ある程度長く活動を続けてきて名前がそこそこ知られるようになった時こそ、かえって気を引き締めないといけない。
それは自分自身が一介の人物であるという勘違いが生まれやすい時期であるのと、仮に知られた存在になれてもあなたの足を引っ張りたがっている人は存外に多いからだ。
どうしても何か言いたいのなら、それこそ同等の実績を出すしかないのではないか。
その兆しすら示せないなら、それはまさしく負け犬の遠吠えであり、痛々しい姿を晒すばかりである。
悔しかったら実績を作り上げるしかない。昨今の日本人からは野心という概念が消え去りつつあるけれど、なんだかんだ大口を叩きながら何かを成し遂げようと驀進する人の姿には一種の清々しさがある。
蚊帳の外というのは楽だ。大して発言に責任を取る必要も無いし、好き勝手後出し理論を展開していれば一見知的に見える。誰とは言わないけれど、最近は不勉強や審美眼の無さを言い訳するレビュアーもいる。
だが、いつの時代もただの批評家とやらは名を成さなかった。中には例外的な人もいるけれど、完全なる安全地帯から奔放に発言して名を残した人はいない。小林秀雄も決して安全地帯にはいなかった。嫌いだけど。
何が言いたいのか自分ですら曖昧模糊としてきたけど、いつになっても謙虚さを忘れずにいる事は大事だ。
ちなみに私はついつい毒を吐きそうになるので、結局は好きな作家しか取り上げない事にしている。嫌いな作家は腐るほどいるけれど、それは口にしないしするべきではない。
不快な感情はフィクションだけに存在していればいい。
憎悪なんていつの時代も供給過多なのだから。
スポンサーサイト